桜散る前に

翔太が東京に旅立ってから三か月が過ぎた。

東京では、翔太は大手ゼネコンの地域開発部で全国各地の再生プロジェクトを統括していた。北海道から沖縄まで、月の半分は出張で各地を飛び回る忙しい日々だった。

「西村さん、今度の熊本プロジェクトの件で相談があります」

同僚が資料を持参してきた。地方都市の商業地区再開発という、まさに翔太の専門分野だった。

「予算規模は五十億円です。半年で基本設計をまとめていただけますか?」

以前の翔太なら躊躇したであろう巨大プロジェクトも、今では自信を持って引き受けることができた。

「承知しました」

翔太の成長は目覚ましかった。金沢での経験が活かされ、地域住民の心を掴む提案力は社内でも高く評価されていた。

しかし、忙しさの中で、翔太は故郷への想いを抱え続けていた。

夜遅く、一人でアパートに帰ると、必ず亜矢に電話をかけた。

「お疲れさまです」

亜矢の声を聞くと、翔太の心は安らいだ。

「亜矢さんこそ、お疲れさま。お父様の調子はいかがですか?」

一方、金沢では亜矢が父を支えながら桜屋を切り盛りしていた。

美奈子を失った健一郎は、なかなか以前の活力を取り戻せずにいた。体験工房での指導も心ここにあらずで、参加者からの評価も下がり気味だった。

「お父さん、今日の参加者の方々、少し不満そうでしたね」

亜矢が優しく指摘すると、健一郎は苦い表情を見せた。

「すまない…どうも集中できなくて」

「無理をしないでください。私も手伝いますから」

亜矢は父の代わりに和菓子作りの指導を学び始めていた。しかし、一朝一夕で職人の技術を身につけられるわけではない。

商店街全体も、桜屋の不調に引きずられるように活気を失いつつあった。

「亜矢ちゃん、大丈夫?」

山田のおばさんが心配そうに声をかけた。

「最近、お客さんの数が減っているみたい」

確かに、翔太がいた頃の賑わいは影を潜めていた。総合プロデューサーという要の人物がいなくなった影響は大きかった。

「何とかしないと…」

亜矢は一人で悩んでいた。翔太に心配をかけたくなくて、電話では明るく振る舞っていたが、実際は非常に厳しい状況だった。

ある夜、亜矢は母の遺品を整理していた。

美奈子の日記が見つかった。最後の方のページには、家族への想いが綴られていた。

『亜矢は本当に強い子に育ちました。きっと健一郎さんを支えて、翔太さんと幸せになってくれるでしょう。でも、無理をしすぎないでほしい。時には弱音を吐いても良いのよ』

母の言葉に、亜矢は涙を流した。

「お母さん…」

その時、翔太から電話がかかってきた。

「亜矢さん、今日はどうでしたか?」

「はい、順調です」

いつものように明るく答えたが、声が震えていた。

「本当に大丈夫ですか?何かあったら遠慮なく言ってください」

翔太の優しさが、かえって亜矢の心を苦しくした。

「大丈夫です。翔太さんこそ、お仕事で疲れているのでは?」

「僕は大丈夫です。でも、亜矢さんの声が…」

「本当に大丈夫ですから」

亜矢は電話を切った後、一人で泣いた。強がっているのがもう限界だった。

翌日、商店街に異変が起きた。

大型チェーン店が近隣に出店するという噂が流れたのだ。

「本当なのか?」

田中のおじさんが慌てて亜矢に確認に来た。

「大型の和菓子チェーン店が駅前に出店するって話だ」

亜矢の顔が青くなった。

「それは…初耳です」

しかし、数日後にその噂は現実となった。全国展開している有名和菓子チェーンが、金沢駅前の一等地に大型店舗を構えると発表したのだ。

「これはまずいぞ」

商店街の店主たちが緊急会議を開いた。

「あんな大型店が来たら、お客さんを取られてしまう」

「特に桜屋は直撃だ」

みんなの視線が亜矢に集まった。

「どうする、亜矢ちゃん?」

亜矢は答えに窮した。翔太がいれば、きっと良いアイデアを出してくれただろう。しかし、今は自分一人で決断しなければならない。

「考えてみます」

その夜、亜矢は一人で商店街を歩いた。

かつて翔太と一緒に歩いた道。母が生きていた頃の賑やかな商店街。すべてが遠い昔のことのように思えた。

「このままでは、みんなに迷惑をかけてしまう」

亜矢は自分の無力さを痛感していた。

東京の翔太も、金沢の状況を遠くから見守っていた。

「やはり心配です」

同僚に相談すると、意外な提案をされた。

「西村さんの故郷の商店街でしょう?うちで支援プロジェクトを組んではいかがですか?」

「支援プロジェクト?」

「はい。地方創生事業の一環として、資金援助や経営指導を行うんです」

翔太の目が輝いた。

「それは可能でしょうか?」

「西村さんの実績なら、会社も乗り気になると思います」

翔太は希望を見出した。

しかし、それを実現するためには、まず上層部を説得しなければならない。そして、何より現地の了承を得る必要があった。

翔太は亜矢に電話をかけた。

「亜矢さん、実は提案があるんです」

「提案?」

「僕の会社で、商店街の支援事業を検討しているんです」

亜矢は驚いた。

「でも、そんな大きな話を一人で決められません」

「もちろんです。まずは皆さんと相談していただければ」

翔太の提案は、確かに魅力的だった。しかし、亜矢には不安もあった。

「翔太さんが心配して、無理をしてくださっているのでは?」

「そんなことありません。これは僕の仕事でもあります」

翔太は真剣に答えた。

「亜矢さんたちの力になりたいんです」

翌日、亜矢は商店街の店主たちにこの提案を伝えた。

反応は様々だった。

「それは良い話じゃないか」

田中のおじさんは前向きだった。

「でも、大手企業の支援を受けると、後々面倒なことになりませんか?」

山田のおばさんは慎重だった。

「もう少し詳しい話を聞いてからでも遅くないでしょう」

結局、翔太に詳細な提案書を作成してもらうことになった。

翔太は連日徹夜で提案書を作成した。金沢商店街の詳細な現状分析、競合対策、支援内容、期待される効果。すべてを具体的な数字で示した。

「これなら、きっと理解してもらえる」

翔太は完成した提案書を金沢に送った。

しかし、予想外のことが起こった。

健一郎が強硬に反対したのだ。

「翔太に迷惑をかけるわけにはいかん」

「でも、お父さん。これは良い機会では?」

「大手企業の世話になるなど、プライドが許さん」

健一郎の頑固さが、再び壁となった。

亜矢は板挟みになった。翔太の好意を無駄にしたくない。しかし、父の気持ちも理解できる。

そして、大型チェーン店の開店まで、あと二か月に迫っていた。

時間がない中で、亜矢は究極の選択を迫られていた。

父を説得するか、翔太の提案を断るか。

どちらを選んでも、誰かを傷つけることになりそうだった。

商店街の運命は、亜矢の決断にかかっていた。