桜散る前に

翔太の新しい仕事が軌道に乗り、治療費の心配もなくなってから三か月が過ぎた。

美奈子の病状は一時期安定していたが、秋になると再び悪化し始めた。抗がん剤の効果も次第に薄れ、医師の表情も日に日に深刻になっていった。

「申し訳ありません」

主治医は家族を呼んで、厳しい現実を告げた。

「がんの進行が予想以上に早く、他の臓器への転移も確認されました」

診察室に重い空気が流れた。

「あと…どのくらいでしょうか?」

健一郎が震え声で尋ねた。

「個人差はありますが…おそらく数か月だと思われます」

医師の言葉に、亜矢は言葉を失った。翔太が彼女の肩を支えた。

「できるだけ苦痛を和らげる治療に切り替えることをお勧めします」

それは事実上、積極的な治療を諦めることを意味していた。

病室に戻ると、美奈子が静かに微笑んでいた。

「みんな、そんな暗い顔をしないで」

家族の表情を見て、自分の状況を悟ったのだろう。

「お母さん…」

亜矢が泣きそうになると、美奈子は娘の手を取った。

「泣かないで。私は幸せよ」

「幸せって…」

「あなたたちが成長する姿を見ることができた。翔太さんという素晴らしい人に出会えた。商店街も見違えるように美しくなった」

美奈子の声は弱々しかったが、温かみがあった。

「十分に幸せな人生だったと思うの」

健一郎は妻の言葉に胸を打たれた。三十年間連れ添った妻の、最後の贈り物だった。

「美奈子…」

「健一郎さん、ありがとうございました」

美奈子は夫を見つめた。

「あなたと結婚して、本当に幸せでした」

健一郎の目に涙が溢れた。普段感情を表に出さない彼が、人目もはばからず泣いている姿を、亜矢は初めて見た。

その夜から、美奈子は自宅で過ごすことを希望した。

「最後は家族と一緒にいたい」

桜屋の二階の部屋が、美奈子の療養室になった。訪問看護師のサポートを受けながら、家族全員で看病することになった。

商店街の人々も頻繁にお見舞いに訪れた。

「美奈子さん、元気を出して」

山田のおばさんが手作りの茶を持参した。

「ありがとう。とても美味しいわ」

美奈子は少しずつお茶を口にした。

「商店街の皆さんは本当に優しいのね」

田中夫妻も、美奈子の好きな料理を作って持ってきてくれた。

「食べられるものがあったら、何でも作りますから」

「みなさんのお気持ちだけで十分です」

美奈子は感謝を込めて微笑んだ。

翔太も仕事の合間を縫って、できるだけ多くの時間を美奈子のそばで過ごした。

「翔太さん、お仕事は大丈夫?」

「心配いりません。今は家族が一番大切です」

翔太の言葉に、美奈子は安心した表情を見せた。

「あなたは本当に良い人ね」

「お母様の方こそ、僕にたくさんのことを教えてくださいました」

翔太は美奈子の手を握った。

「お金よりも大切なもの、家族の絆の尊さ、この街への愛…すべてお母様から学びました」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」

美奈子の呼吸が次第に浅くなっていく中、彼女は最後の言葉を家族に伝えようとしていた。

十二月のある夜、美奈子は家族を枕元に呼んだ。

「みんな、ありがとう」

か細い声だったが、はっきりと聞こえた。

「健一郎さん、桜屋をよろしくお願いします。でも、無理はしないで」

健一郎は涙を堪えながら頷いた。

「亜矢ちゃん、あなたは強い子です。お父さんを支えて、翔太さんと幸せになってください」

「お母さん…」

亜矢は母の手を強く握った。

「翔太さん、亜矢を…この家族を…よろしくお願いします」

「はい、必ずお守りします」

翔太は深く頭を下げた。

「そして…商店街のみなさんにもお礼を伝えてください」

美奈子は最後の力を振り絞って言った。

「みんなが幸せでありますように…」

それが美奈子の最後の言葉だった。

翌朝、静かに息を引き取った美奈子の顔は、安らかで美しかった。まるで微笑んでいるようにも見えた。

葬儀には商店街の人々だけでなく、全国から翔太の仕事関係者も参列した。美奈子がどれだけ多くの人に愛されていたかを物語っていた。

「美奈子さんは、本当に素晴らしい方でした」

山田のおばさんが涙ながらに語った。

「いつも明るくて、優しくて、私たちの心の支えでした」

田中のおじさんも追悼の言葉を述べた。

「美奈子さんの教えを忘れずに、商店街を守っていきます」

翔太は弔辞で、美奈子への感謝の気持ちを表した。

「お母様は僕に、本当に大切なものは何かを教えてくださいました。愛、絆、そして信念を貫くことの尊さを」

翔太の声は震えていたが、力強さもあった。

「これからも、お母様の教えを胸に、亜矢さんと共に歩んでいきます」

葬儀が終わった夜、桜屋は静寂に包まれていた。

健一郎は一人工房で座り込んでいた。三十年間、毎日顔を合わせていた妻がいない現実を、受け入れることができずにいた。

「お父さん」

亜矢が工房に入ってきた。

「無理をしないでください」

「亜矢…」

健一郎はようやく娘の方を向いた。

「お前の母さんは、立派な人だった」

「はい」

「わしは…わしは一人でやっていけるだろうか」

健一郎の弱音を聞くのは初めてだった。

「大丈夫です。私がいます。翔太さんもいます」

亜矢は父の隣に座った。

「お母さんの分まで、私たちが支えます」

健一郎の目に涙が浮かんだ。

「すまない…情けない父親で」

「そんなことありません」

亜矢は父の肩に手を置いた。

「お父さんは私の誇りです」

翔太も工房に入ってきた。

「高橋さん、僕も精一杯支えます」

「翔太…」

「お母様との約束ですから」

翔太の言葉に、健一郎は深く頷いた。

「ありがとう」

三人は静かに美奈子を偲んだ。

彼女の死は大きな悲しみだったが、残された家族の絆はより強くなっていた。

美奈子の愛が、永遠に家族を結び続けるだろう。

そして、その愛は商店街の人々の心にも、深く刻まれていた。