桜散る前に

美奈子の病状は日を追うごとに悪化していた。

抗がん剤治療の副作用で食事もままならず、以前の活発な姿は見る影もなかった。それでも彼女は、家族に心配をかけまいと必死に笑顔を作ろうとしていた。

「亜矢、店の方は大丈夫?」

病床で美奈子が心配そうに尋ねた。

「大丈夫よ、お母さん。翔太さんが手伝ってくれているから」

亜矢は明るく答えたが、実際は非常に厳しい状況だった。健一郎は病院にかかりきりで、店の経営は事実上亜矢一人の肩にかかっていた。

翔太も可能な限りサポートしていたが、総合プロデューサーとしての仕事もあり、十分な時間を割くことができずにいた。

「翔太さん、無理をさせてしまって申し訳ありません」

健一郎が病院の廊下で翔太に謝った。

「そんなことありません。家族ですから」

翔太は疲れた表情を隠しながら答えた。

「でも、お前にも自分の人生がある」

健一郎の言葉に、翔太は胸が痛んだ。東京への転勤の話は、まだ誰にも相談できずにいた。

その夜、翔太は一人で事務所にいた。東京のゼネコンからの返事の期限が迫っている。

机の上には、美奈子の治療費の見積もりが置かれていた。手術費、入院費、抗がん剤の費用。すべて合わせると、健一郎の蓄えでは到底賄いきれない金額だった。

「どうすればいいんだ…」

翔太は頭を抱えた。

翌日、亜矢が事務所を訪れた。

「翔太さん、お疲れさまです」

「亜矢さん…どうしたんですか?」

「実は、相談があるんです」

亜矢は深刻な表情で座った。

「お母さんの治療費のことです」

翔太の心臓が跳ねた。

「医師から説明を受けました。今後必要な費用を計算すると…」

亜矢は震える手で資料を広げた。

「約一千万円が必要だそうです」

「一千万円…」

「お父さんの貯金と店の売上を合わせても、とても足りません」

亜矢の目に涙が浮かんだ。

「私、東京で働こうと思っています」

「東京で?」

「大学時代の友人が出版社にいるので、紹介してもらえるかもしれません」

亜矢の提案に、翔太は慌てた。

「でも、お父様が一人になってしまいます」

「仕方ありません。お母さんを救うためです」

亜矢の決意は固かった。

その時、翔太は決断した。

「亜矢さん、実は僕も東京への転勤の話があるんです」

「え?」

翔太は東京のゼネコンからの提案について説明した。

「医療費も全額会社が負担してくれるそうです」

亜矢の表情が明るくなった。

「それは素晴らしい話じゃないですか」

「でも、君と離ればなれになってしまいます」

「私も東京に行けば問題ありません」

亜矢は前向きに答えた。

「二人で力を合わせて、お母さんを支えましょう」

翌日、翔太は東京のゼネコンに返事をした。

「条件をお受けいたします」

「素晴らしい。来月から東京本社での勤務をお願いします」

電話を切った後、翔太は複雑な気持ちだった。美奈子を救うためとはいえ、金沢を離れることになる。

そして、健一郎との三年の約束も破ることになってしまう。

その夜、翔太と亜矢は健一郎に報告した。

「東京への転勤?」

健一郎の表情が険しくなった。

「はい。医療費の心配もなくなりますし、亜矢さんも一緒に…」

「待て」

健一郎が翔太を遮った。

「お前は逃げるのか?」

「逃げるなんて…」

「困難にぶつかると、すぐに逃げ出す。それがお前の本性か?」

健一郎の厳しい言葉に、翔太は言い返せなかった。

「お父さん、そんな言い方はひどいです」

亜矢が割って入った。

「翔太さんは私たちのことを考えて…」

「黙れ、亜矢」

健一郎は娘を厳しく見た。

「お前も、困難から逃げようとしているだけだ」

「そんなことありません」

「では、なぜここに残って戦おうとしない?」

健一郎の問いに、二人は答えられなかった。

「お金がないから逃げる。それは戦いではない」

健一郎は立ち上がった。

「真の戦いとは、最後まで諦めないことだ」

「でも、現実的に考えて…」

翔太が反論しようとした時、美奈子の声が聞こえた。

「みんな、何を騒いでいるの?」

美奈子が病院から一時帰宅していた。やつれた顔だが、家族の口論を心配している。

「お母さん、すみません」

亜矢が駆け寄った。

「大丈夫よ。でも、何の話?」

健一郎は事情を説明した。美奈子は静かに聞いていたが、やがて口を開いた。

「翔太さん、東京に行ってはダメです」

「でも、お母様の治療費が…」

「お金のことは心配いりません」

美奈子は穏やかに言った。

「私はもう十分長生きしました」

「何を言っているんですか」

「翔太さん、あなたがここを離れたら、商店街はどうなりますか?」

美奈子の問いに、翔太は考えさせられた。

「みんな、あなたを信頼しています。あなたが去ってしまったら、きっと商店街は元の状態に戻ってしまう」

美奈子の言葉には深い洞察があった。

「亜矢ちゃんも同じです。この街で生まれ、この街を愛している。なぜ東京に行く必要があるの?」

母の言葉に、亜矢は胸を打たれた。

「でも、お母さんの治療費が…」

「お金より大切なものがあるでしょう?」

美奈子は娘の手を取った。

「あなたたちの愛、この街への想い、みんなとの絆。それらを捨ててまで、私の命を買う必要はありません」

翔太は美奈子の言葉に深く感動した。

「お母様…」

「翔太さん、約束してください」

美奈子は翔太の手を握った。

「私がいなくなっても、亜矢を、健一郎を、この街を守ってください」

翔太の目に涙が溢れた。

「お母様、まだ諦めるのは早いです」

「私は諦めていません」

美奈子は微笑んだ。

「でも、現実は受け入れています。だからこそ、あなたたちには後悔のない選択をしてほしいの」

その夜、翔太は長い間考えた。

美奈子の言葉、健一郎の叱責、亜矢の心配。すべてが心に重くのしかかっていた。

翌朝、翔太は決断を下した。

東京のゼネコンに電話をかけた。

「申し訳ありません。やはりお受けできません」

「どうしてですか?破格の条件を提示したはずですが」

「お金では買えないものがあることに気づきました」

翔太の声には確信があった。

「この街に、愛する人に、責任があります」

電話を切った後、翔太は清々しい気持ちになっていた。

困難は残っている。美奈子の治療費をどう工面するか、まだ答えは見つからない。

しかし、逃げることはしない。

最後まで戦い抜く。それが、愛する人たちへの責任だった。

桜屋では、美奈子が安堵の表情を見せていた。

「良かった…翔太さんは逃げなかった」

健一郎も満足そうに頷いた。

「あの男は、真の男だ」

亜矢は複雑な気持ちだった。翔太の決断は嬉しかったが、母の治療費の問題は解決していない。

しかし、三人で力を合わせれば、きっと道は見つかる。

そう信じて、新たな戦いに向かう決意を固めた。