翌朝、亜矢は午前五時に目を覚ました。
東京での大学生活では考えられない時刻だったが、桜屋の一日は早い。一階から聞こえる父の足音と、仕込み作業の音で自然と体が反応した。
急いで身支度を整えて階下に降りると、健一郎は既に工房で作業を始めていた。白い割烹着に身を包み、黙々と餡を練る姿は、まさに職人そのものだった。
「おはようございます」
亜矢の挨拶に、健一郎は手を止めることなく振り返った。
「遅い。職人は夜明け前から仕事を始める」
厳しい言葉だったが、亜矢は反論しなかった。これから始まる修行の厳しさを、改めて実感した。
「まず、手を洗え。爪は短く切ったか?髪はちゃんと束ねろ」
健一郎の指示は細かく、容赦がなかった。和菓子作りにおいて清潔さは絶対条件。少しでも気を抜けば、すぐに叱責が飛ぶ。
「今日は見学だ。四年間のブランクがどれほどのものか、まずは確かめる」
健一郎は小豆を煮る作業を始めた。火加減、水の量、煮る時間。全てが長年の経験に基づいた絶妙な調整で行われている。
「お父さん、私も手伝わせて」
「まだ早い」
健一郎は首を振った。
「まずは見て覚えろ。職人の仕事は見て盗むものだ」
亜矢は黙って父の手元を見つめた。小豆の皮が弾けるタイミング、アクを取る手際、火を止める瞬間の判断。全てが熟練の技だった。
「亜矢ちゃん、おはよう」
美奈子が朝食の準備をしながら声をかけた。工房と住居部分は繋がっており、家族の生活と仕事が一体となっている。これも老舗和菓子店の特徴だった。
「お母さん、おはよう」
「お父さん、そんなに厳しくしなくても」
美奈子が苦笑した。
「甘やかすな」
健一郎は振り返らずに言った。
「この子は四年間、遊んで暮らしてきたんだ。一から叩き直さねば」
「遊んでいたわけでは…」
亜矢が反論しかけると、健一郎の鋭い視線が飛んできた。
「文学などという役に立たんものを学んで、それが何の足しになる?和菓子一つ作れずに何が大学卒業だ」
言葉が胸に刺さった。亜矢は唇を噛んで黙った。確かに、文学は和菓子作りの直接的な役には立たない。しかし、それが無意味だとは思えなかった。
「父さん、それは言い過ぎよ」
美奈子が珍しく健一郎に異を唱えた。普段は控えめな母が、娘を庇う時は強くなる。
「学問は無駄にはならないわ。亜矢ちゃんが学んだことは、きっと和菓子作りにも活かされる」
健一郎は何も答えなかったが、作業の手が少し荒くなった。
朝食後、健一郎は亜矢を店の前に連れて行った。朝の商店街は静かで、まだ開いている店は少ない。
「この街並みを見ろ」
健一郎が指差した先には、古い木造家屋が軒を連ねている。
「うちの祖父がこの店を始めた時から、ほとんど変わっていない。それが我々の誇りだ」
「でも、再開発の話が…」
「くだらん話だ」
健一郎の声に怒りが込もった。
「金儲けのためなら何でも壊す、そんな連中の言うことなど聞く必要はない」
亜矢は父の横顔を見つめた。頑固で古いものにこだわる父だが、その想いの根底には深い愛情があることを知っている。この街への愛、桜屋への愛、そして家族への愛。
「私、頑張る」
亜矢は小さくつぶやいた。
「何だって?」
「和菓子作り、一から頑張って覚える。お父さんの技術を継いで、桜屋を守る」
健一郎は娘の顔をじっと見つめた。その目に少し優しさが宿る。
「口で言うのは簡単だ。体で覚えてから言え」
そう言いながらも、健一郎の表情は幾分和らいでいた。
工房に戻ると、健一郎は亜矢に基本的な道具の説明を始めた。練り台、木杓子、濾し器、型抜き。一つ一つの道具に、長い歴史と職人の技が込められている。
「今日は餡作りから始める。小豆の選別から学べ」
健一郎が差し出した小豆を手に取ると、その一粒一粒の重みが手に伝わってきた。良質な小豆を選び分ける作業は、まさに職人の基本中の基本だった。
「これは?」
亜矢が虫食いの小豆を示すと、健一郎は頷いた。
「取り除け。一粒の悪い豆が、全体の味を台無しにする」
その言葉には、和菓子作りだけでなく、人生に対する哲学が込められているように感じられた。
昼近くになると、商店街の他の店主たちが桜屋を訪れ始めた。
「高橋さん、娘さんが帰ってきたんだってね」
隣の乾物屋の主人、田中さんが顔を見せた。
「ええ、まあ」
健一郎は素っ気なく答えた。
「良かった良かった。これで桜屋も安泰だ」
しかし、田中さんの表情は手放しで喜んでいるようには見えなかった。
「例の話、どうするつもりだい?」
「まだ何も決まっていない」
「でも、向こうは本気らしいよ。大きな会社が入って、この辺り一帯を変えるって話だ」
健一郎の顔が険しくなった。
「そんな話に乗る気はない」
「だけどね、高橋さん。時代は変わってるんだよ。私たちみたいな古い店ばかりじゃ、若い人は来てくれない」
田中さんの言葉に、健一郎は何も答えなかった。しかし、その表情から複雑な心境が読み取れた。
亜矢は黙って二人の会話を聞いていた。故郷に戻って二日目にして、桜屋を取り巻く厳しい現実を突きつけられている。
伝統を守ることと、時代に適応することの間で揺れる商店街。その中で、父はどのような道を選ぼうとしているのか。
そして自分は、どのようにして父を支えていけるのか。
窓の外では、最後の桜の花びらが静かに舞い散っていた。
東京での大学生活では考えられない時刻だったが、桜屋の一日は早い。一階から聞こえる父の足音と、仕込み作業の音で自然と体が反応した。
急いで身支度を整えて階下に降りると、健一郎は既に工房で作業を始めていた。白い割烹着に身を包み、黙々と餡を練る姿は、まさに職人そのものだった。
「おはようございます」
亜矢の挨拶に、健一郎は手を止めることなく振り返った。
「遅い。職人は夜明け前から仕事を始める」
厳しい言葉だったが、亜矢は反論しなかった。これから始まる修行の厳しさを、改めて実感した。
「まず、手を洗え。爪は短く切ったか?髪はちゃんと束ねろ」
健一郎の指示は細かく、容赦がなかった。和菓子作りにおいて清潔さは絶対条件。少しでも気を抜けば、すぐに叱責が飛ぶ。
「今日は見学だ。四年間のブランクがどれほどのものか、まずは確かめる」
健一郎は小豆を煮る作業を始めた。火加減、水の量、煮る時間。全てが長年の経験に基づいた絶妙な調整で行われている。
「お父さん、私も手伝わせて」
「まだ早い」
健一郎は首を振った。
「まずは見て覚えろ。職人の仕事は見て盗むものだ」
亜矢は黙って父の手元を見つめた。小豆の皮が弾けるタイミング、アクを取る手際、火を止める瞬間の判断。全てが熟練の技だった。
「亜矢ちゃん、おはよう」
美奈子が朝食の準備をしながら声をかけた。工房と住居部分は繋がっており、家族の生活と仕事が一体となっている。これも老舗和菓子店の特徴だった。
「お母さん、おはよう」
「お父さん、そんなに厳しくしなくても」
美奈子が苦笑した。
「甘やかすな」
健一郎は振り返らずに言った。
「この子は四年間、遊んで暮らしてきたんだ。一から叩き直さねば」
「遊んでいたわけでは…」
亜矢が反論しかけると、健一郎の鋭い視線が飛んできた。
「文学などという役に立たんものを学んで、それが何の足しになる?和菓子一つ作れずに何が大学卒業だ」
言葉が胸に刺さった。亜矢は唇を噛んで黙った。確かに、文学は和菓子作りの直接的な役には立たない。しかし、それが無意味だとは思えなかった。
「父さん、それは言い過ぎよ」
美奈子が珍しく健一郎に異を唱えた。普段は控えめな母が、娘を庇う時は強くなる。
「学問は無駄にはならないわ。亜矢ちゃんが学んだことは、きっと和菓子作りにも活かされる」
健一郎は何も答えなかったが、作業の手が少し荒くなった。
朝食後、健一郎は亜矢を店の前に連れて行った。朝の商店街は静かで、まだ開いている店は少ない。
「この街並みを見ろ」
健一郎が指差した先には、古い木造家屋が軒を連ねている。
「うちの祖父がこの店を始めた時から、ほとんど変わっていない。それが我々の誇りだ」
「でも、再開発の話が…」
「くだらん話だ」
健一郎の声に怒りが込もった。
「金儲けのためなら何でも壊す、そんな連中の言うことなど聞く必要はない」
亜矢は父の横顔を見つめた。頑固で古いものにこだわる父だが、その想いの根底には深い愛情があることを知っている。この街への愛、桜屋への愛、そして家族への愛。
「私、頑張る」
亜矢は小さくつぶやいた。
「何だって?」
「和菓子作り、一から頑張って覚える。お父さんの技術を継いで、桜屋を守る」
健一郎は娘の顔をじっと見つめた。その目に少し優しさが宿る。
「口で言うのは簡単だ。体で覚えてから言え」
そう言いながらも、健一郎の表情は幾分和らいでいた。
工房に戻ると、健一郎は亜矢に基本的な道具の説明を始めた。練り台、木杓子、濾し器、型抜き。一つ一つの道具に、長い歴史と職人の技が込められている。
「今日は餡作りから始める。小豆の選別から学べ」
健一郎が差し出した小豆を手に取ると、その一粒一粒の重みが手に伝わってきた。良質な小豆を選び分ける作業は、まさに職人の基本中の基本だった。
「これは?」
亜矢が虫食いの小豆を示すと、健一郎は頷いた。
「取り除け。一粒の悪い豆が、全体の味を台無しにする」
その言葉には、和菓子作りだけでなく、人生に対する哲学が込められているように感じられた。
昼近くになると、商店街の他の店主たちが桜屋を訪れ始めた。
「高橋さん、娘さんが帰ってきたんだってね」
隣の乾物屋の主人、田中さんが顔を見せた。
「ええ、まあ」
健一郎は素っ気なく答えた。
「良かった良かった。これで桜屋も安泰だ」
しかし、田中さんの表情は手放しで喜んでいるようには見えなかった。
「例の話、どうするつもりだい?」
「まだ何も決まっていない」
「でも、向こうは本気らしいよ。大きな会社が入って、この辺り一帯を変えるって話だ」
健一郎の顔が険しくなった。
「そんな話に乗る気はない」
「だけどね、高橋さん。時代は変わってるんだよ。私たちみたいな古い店ばかりじゃ、若い人は来てくれない」
田中さんの言葉に、健一郎は何も答えなかった。しかし、その表情から複雑な心境が読み取れた。
亜矢は黙って二人の会話を聞いていた。故郷に戻って二日目にして、桜屋を取り巻く厳しい現実を突きつけられている。
伝統を守ることと、時代に適応することの間で揺れる商店街。その中で、父はどのような道を選ぼうとしているのか。
そして自分は、どのようにして父を支えていけるのか。
窓の外では、最後の桜の花びらが静かに舞い散っていた。



