桜散る前に

健一郎の賛同を得てから一週間、商店街は慌ただしい空気に包まれていた。

各店舗で改修工事の準備が進み、体験プログラムの内容検討が行われている。桜屋の工房でも、亜矢と翔太が健一郎と共に詳細なプランニングに取り組んでいた。

「体験工房の設計はこれでどうですか?」

翔太が新しい図面を広げた。桜屋の脇に増設される体験工房は、従来の建物と調和するように設計されている。

「木造で、瓦屋根…いいじゃないか」

健一郎は図面を見ながら頷いた。

「しかし、この作業台の高さは少し低いな」

「調整します」
翔太は素早くメモを取った。
「他に気になる点はありますか?」

「換気扇の位置だ。餡を煮る時の湯気を考慮してくれ」

健一郎の指摘は実践的で鋭い。翔太は職人の経験に基づく意見の重要性を改めて実感した。

「お父さん、体験プログラムの内容についても相談があります」

亜矢が資料を取り出した。

「初心者向け、中級者向け、上級者向けの三コースを考えているんですが」

「初心者には何を教える?」

「練り切りの基本形から始めて、簡単な季節の和菓子を作ってもらいます」

「簡単な和菓子など存在しない」

健一郎は厳しく言った。

「どんな菓子でも、手を抜けば台無しになる」

「そうですね」
亜矢は反省した。
「では、基本を丁寧に教えるということで」

「それでいい。手順を省略するのではなく、分かりやすく説明することが大切だ」

健一郎の考えは一貫していた。妥協はしない。しかし、伝えることは惜しまない。

午後になると、他の店舗の代表者たちが桜屋に集まった。第二回目の全体会議だった。

「皆さん、準備の方はいかがですか?」

翔太が司会を務めた。

「うちは順調です」
田中のおじさんが答えた。
「料理教室用の設備も手配できました」

「山田茶舗も問題ありません」
山田のおばさんが続けた。
「茶室の改装も来月には完了予定です」

各店舗から前向きな報告が続いた。しかし、現実的な問題も浮上している。

「一つ心配があります」

書店の斉藤さんが口を開いた。

「本当にお客さんが来てくれるでしょうか?宣伝はどうするんですか?」

「それについては、観光協会と連携します」
翔太が答えた。
「また、SNSを活用した情報発信も計画しています」

「SNS?」

年配の店主たちには馴染みがない言葉だった。

「インターネットを使った宣伝方法です」
亜矢が補足した。
「写真や動画を投稿して、多くの人に見てもらえます」

「そんなもので効果があるのか?」

「はい。特に若い世代や外国人観光客には非常に効果的です」

翔太は成功例を示しながら説明した。

「でも、我々にはそんな技術はないぞ」

「大丈夫です」
亜矢が笑顔で答えた。
「私が担当します。文学を学んだ経験を活かして、魅力的な文章と写真で宣伝します」

「頼もしいね」
田中のおばさんが感心した。

しかし、健一郎は別の心配をしていた。

「宣伝も大切だが、肝心なのは中身だ」

全員が健一郎を見た。

「お客さんが期待して来てくださっても、我々の技術が未熟では意味がない」

「その通りです」
翔太が同意した。
「体験プログラムの指導者としてのトレーニングも必要ですね」

「トレーニング?」

「はい。いくら技術があっても、教え方は別の技術です」

翔太の指摘に、みんなが納得した。

「それでは、来週から指導法の研修を始めましょう」

亜矢が提案した。

「どんな研修だ?」

「まず、お互いの技術を教え合ってみませんか?」

亜矢のアイデアは新鮮だった。

「田中さんがだしの取り方を教えて、山田さんが茶の淹れ方を教える。そうやって、教える練習をするんです」

「面白いアイデアですね」
薬局の森さんが興味を示した。

「私も薬草について教える練習ができます」

「よし、やってみよう」健一郎が決断した。「お互いに学び合うことで、より良い指導ができるようになる」

会議が終わると、翔太と亜矢は商店街を歩いた。工事の準備で忙しく動く人々の姿が見える。

「本当に動き出しましたね」

亜矢は感慨深げに言った。

「はい。でも、これからが正念場です」

翔太も気を引き締めていた。

「失敗は許されませんから」

「大丈夫です」
亜矢は翔太を見つめた。
「翔太さんがいてくれれば」

その言葉に、翔太は胸が温かくなった。

「亜矢さんも、僕にとって欠かせない存在です」

二人は立ち止まって、互いを見つめ合った。

「あの…翔太さん」

「はい?」

「もしプロジェクトが成功したら…」

亜矢は言いかけて、恥ずかしそうに俯いた。

「成功したら?」

翔太は優しく促した。

「その時は…ゆっくりお話ししませんか?仕事のことじゃなくて」

亜矢の言葉に込められた意味を、翔太は理解した。

「もちろんです」

翔太は微笑んだ。

「僕も、亜矢さんともっとお話ししたいと思っていました」

二人の間に、新しい感情が芽生えようとしていた。これまでは共通の目標に向かうパートナーとしての関係だったが、それ以上の何かが生まれ始めている。

夕方、桜屋に戻ると、美奈子が夕食の準備をしていた。

「お疲れさま。今日の会議はどうだった?」

「順調です」
亜矢は嬉しそうに報告した。
「みなさん、本当に熱心に取り組んでくださっています」

「良かった」
美奈子は安堵した。
「お父さんも、最近生き生きしているものね」

確かに、健一郎は以前より活気があった。新しい挑戦への期待が、彼を若返らせているようだ。

「翔太さんも一緒に夕食はいかが?」

美奈子の提案に、翔太は恐縮した。

「ありがとうございます。でも、ご迷惑では…」

「迷惑なものか」

健一郎が工房から出てきた。

「家族同然に働いてくれているんだ。遠慮することはない」

「お父さん…」

亜矢は父の変化に驚いていた。あれほど翔太を敵視していたのに、今では家族のように扱っている。

「ありがとうございます」

翔太は深く頭を下げた。

夕食の席で、四人は今後の計画について語り合った。工事のスケジュール、体験プログラムの詳細、宣伝方法。話題は尽きなかった。

「来年の春には、きっと賑やかな商店街になっているでしょうね」

美奈子の言葉に、みんなが微笑んだ。

「そうですね」翔太が答えた。「桜の季節には、桜をテーマにした特別な和菓子体験プログラムも開催できます」

「桜餅、桜饅頭、桜羊羹…」

亜矢は楽しそうに想像した。

「ああ、楽しみだ」

健一郎も笑顔を見せた。

その夜、翔太を見送った後、亜矢は自分の部屋で日記を書いていた。

「今日は本当に充実した一日でした。プロジェクトも順調に進んでいるし、翔太さんとの関係も…」

亜矢は照れながらペンを止めた。

まだはっきりとした感情ではないが、翔太への気持ちが恋愛感情に変わりつつあることを感じていた。

窓の外では、商店街の明かりが温かく灯っている。

数か月前まで衰退の一途を辿っていた街が、今は希望に満ちている。

「きっと成功させます」

亜矢は心に誓った。

そして、翔太との関係も、きっと素晴らしいものになるだろう。

明日もまた、忙しい一日が始まる。しかし、それは充実した忙しさだった。

夢に向かって歩む毎日が、こんなにも楽しいものだとは思わなかった。

亜矢は幸せな気持ちで眠りについた。