桜散る前に

翌日の午前中、亜矢は翔太と共に桜屋に向かった。

心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、見慣れた店の前に立つ。一カ月ぶりに見る桜屋は、少し小さく感じられた。

「大丈夫ですか?」

翔太が心配そうに尋ねた。

「はい。でも、やっぱり緊張します」

亜矢は深呼吸をして、店の扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

美奈子の声が聞こえた。娘の姿を見ると、美奈子の顔が驚きに変わった。

「亜矢ちゃん!」

「お母さん、お久しぶりです」

「元気だった?心配してたのよ」

美奈子は娘を抱きしめた。その温かさに、亜矢の目に涙が滲んだ。

「それと…この方は?」

美奈子は翔太を見た。

「西村翔太と申します。いつもお嬢さんにお世話になっております」

翔太は丁寧に頭を下げた。

「あなたが…」
美奈子は複雑な表情を見せた。
「健一郎さんは奥にいます。でも、怒らせないでちょうだいね」

「はい、気をつけます」

亜矢は奥の工房に向かった。健一郎は黙々と餡を練っている。娘の足音に気づいても、振り返ろうとしない。

「お父さん」

亜矢が声をかけると、健一郎の手が止まった。

「何の用だ」

冷たい声だった。

「お話があります」

「話すことなど何もない」

健一郎は作業を続けようとした。

「お父さん、お願いします。五分だけでも」

「帰れと言っている」

その時、翔太が工房の入り口に現れた。

「高橋さん」

健一郎の顔が怒りに染まった。

「なぜこの男を連れてきた?」

「翔太さんにも話を聞いていただきたいんです」

「聞くことなど何もない」

健一郎は翔太を睨みつけた。

「お前のような男の話など」

「お父さん!」

亜矢は父の前に立った。

「翔太さんは悪い人じゃありません。本当に商店街のことを考えてくれています」

「騙されているのはお前の方だ」

健一郎は娘を見据えた。

「その男は会社の命令で動いているだけだ」

「違います」
翔太が口を開いた。
「私はもう会社を辞めました」

健一郎は驚いた。

「会社を辞めた?」

「はい。亜矢さんと一緒に、商店街を救いたいと思ったからです」

「嘘をつくな」

「本当です」
翔太は誠実に答えた。
「証明もできます」

翔太は退職証明書を取り出した。健一郎はそれを疑い深そうに見つめた。

「それで何だというのだ?」

「私は住民の皆さんと一緒に、新しい商店街を作りたいんです」

「新しい商店街?」
健一郎は冷笑した。
「古いものを壊して、魂のない施設を作るということか?」

「いいえ」
翔太は首を振った。
「古いものを大切に残しながら、新しい価値を付け加えるんです」

「戯言を」

「お父さん、まずは話を聞いてください」

亜矢は資料を取り出した。

「昨日、商店街の六店舗の代表者が集まって、説明会を開きました」

「六店舗?」

健一郎は驚いた。

「田中さん、山田さん、書店の斉藤さん、文具店の佐々木さん、薬局の森さん…みんな賛成してくれました」

健一郎の表情が変わった。

「田中たちが?」

「はい。みんな、商店街の将来を心配していました」

亜矢は模型を取り出した。

「これが私たちの考えたプランです」

模型を見た健一郎は、思わず息を呑んだ。

「これは…」

「桜屋の建物は、そのままの形で残します」
翔太が説明した。
「ただし、脇に体験工房を増設して、和菓子作りを教える場所にするんです」

「体験工房?」

「はい。観光客の方に、本物の和菓子作りを体験してもらいます」

健一郎は模型を見つめていた。確かに、桜屋の古い建物はそのまま残されている。

「お父さんの技術を、多くの人に伝えることができます」

亜矢が続けた。

「それは立派な文化継承だと思いませんか?」

健一郎は黙っていた。

「でも」
ようやく口を開いた。
「和菓子作りは遊びではない。観光客の娯楽にするなど…」

「娯楽ではありません」
翔太が真剣に言った。
「本物の技術を教えるんです。簡略化したり、見た目だけを真似たりするのではなく」

「本物の技術?」

「はい。素材の選び方、餡の練り方、成形の技法。すべて本格的に教えます」

翔太の説明に、健一郎は少し興味を示した。

「それで、生計が立つのか?」

「立ちます」
亜矢が収支計算書を見せた。
「体験料と商品販売で、今より三割増しの売上が見込めます」

健一郎は資料を見つめていた。

「しかし…」

「お父さん、このままでは桜屋は潰れてしまいます」

亜矢の言葉に、健一郎は顔を上げた。

「潰れても構わんと言ったはずだ」

「でも、本当はそう思っていないでしょう?」

亜矢は父の目を見つめた。

「お父さんが一番、桜屋を愛している。そして、お客さんに喜んでもらいたいと思っている」

健一郎は娘の言葉に動揺した。

「このプランなら、桜屋の伝統を守りながら、もっと多くの人に和菓子の素晴らしさを伝えられます」

「でも…」
健一郎はまだ迷っていた。
「わしのような古い人間に、観光客を相手にする商売などできるのか?」

「できます」
翔太が力強く言った。
「高橋さんの技術と人柄なら、必ずお客様に喜んでもらえます」

「それに、私が手伝います」
亜矢が付け加えた。
「お父さんが技術を教えて、私が説明やお客様の対応をします」

健一郎は娘を見つめた。

「お前は…戻ってくるのか?」

「はい」
亜矢は微笑んだ。
「もし、お父さんが許してくれるなら」

健一郎の目に涙が滲んだ。

「馬鹿者…許すも何も、ここはお前の家だ」

亜矢は父に駆け寄った。

「お父さん」

「しかし」
健一郎は威厳を保とうとした。
「条件がある」

「何でもします」

「このプランが失敗したら、潔く店を畳む。それでもいいか?」

「失敗はしません」
翔太が断言した。
「必ず成功させます」

健一郎は翔太を見つめた。

「お前は…本当に娘のことを大切に思っているのか?」

翔太は一瞬戸惑った。

「はい」

「ならば」
健一郎は厳しい表情で言った。
「失敗は許さん。亜矢の人生も、桜屋の未来も、お前の手にかかっているのだぞ」

「承知しています」

翔太は深く頭を下げた。

「それでは」
健一郎がついに言った。
「やってみよう」

「本当ですか?」亜矢が飛び跳ねた。

「ただし、わしのやり方は変えない。妥協はしない」

「もちろんです」

翔太は安堵の笑顔を見せた。

その時、美奈子が工房に顔を見せた。

「どうなったの?」

「お母さん、お父さんが賛成してくれました」

「本当に?」

美奈子の顔が明るくなった。

「良かった…本当に良かった」

美奈子は涙を流していた。

「それでは」
翔太が言った。
「来週から具体的な準備に入りましょう」

「ああ」
健一郎が頷いた。
「しかし、覚悟はしておけよ。わしの修行は厳しいぞ」

「楽しみにしています」

亜矢は嬉しそうに答えた。

ついに、商店街再生プランが動き出す。

七店舗すべての賛同を得て、希望に満ちた未来が見えてきた。

しかし、本当の戦いはこれからだった。

プランを現実にするには、まだまだ多くの困難が待っているだろう。

でも、今は素直に喜びたかった。

家族が再び一つになり、夢に向かって歩み始めたのだから。

桜屋の工房に、久しぶりに明るい笑い声が響いた。