桜散る前に

説明会当日の夕方、市民センターの会議室には緊張した空気が漂っていた。

亜矢は受付で資料を整理しながら、何度も時計を見ていた。午後七時開始まで、あと三十分。参加予定者は六店舗の代表者だったが、本当に来てくれるだろうか。

「大丈夫ですよ」

翔太が亜矢の肩に手を置いた。

「みなさん、真剣に検討してくださっています」

「でも、土壇場で気が変わることもありますよね」

亜矢の不安は消えなかった。これまでも何度も、期待が裏切られることがあった。

会議室の前方には、翔太が徹夜で準備したプレゼンテーション資料が並んでいる。模型、設計図、収支計算書、工程表。すべてが完璧に準備されていた。

午後六時五十分、最初の参加者が現れた。

「こんばんは」

田中夫妻だった。少し緊張した様子だが、しっかりとした足取りで会議室に入ってきた。

「田中さん、ありがとうございます」

亜矢は安堵の気持ちで迎えた。

続いて、書店の店主、文具店の若夫婦、そして山田夫妻が到着した。薬局の主人は最後まで迷っていたが、開始五分前に姿を見せた。

「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」

翔太が挨拶を始めた時、会議室の扉が開いた。

「遅くなりました」

意外な人物が現れた。隣町の商店街で成功している若い店主、佐藤さんだった。

「佐藤さん?どうして…」

「田中さんから話を聞いたんです」
佐藤さんは笑顔で答えた。
「面白そうな取り組みですね。参考になればと思って」

佐藤さんは二年前、自分の商店街で似たような取り組みを成功させていた。その経験談は、参加者たちにとって大きな励みになるだろう。

「それでは、始めさせていただきます」

翔太はプロジェクターを操作し、商店街の現状分析から説明を始めた。

「現在の年間売上総額は約二億円。しかし、十年前と比較すると四十パーセントの減少です」

具体的な数字に、参加者たちの表情が引き締まった。

「このままでは、五年以内に半数の店舗が廃業に追い込まれる可能性があります」

厳しい現実を突きつけられ、会議室は重い空気に包まれた。

「しかし」
翔太は希望を込めて続けた。
「適切な対策を講じれば、十年で売上を五割増加させることも可能です」

画面に映し出された成功例に、参加者たちの目が輝いた。

「その方法が、体験型観光と文化継承を組み合わせた商店街再生プランです」

翔太の説明は具体的で分かりやすかった。各店舗での体験プログラム、観光ルートの設定、季節イベントの開催。すべてが現実的で魅力的に思えた。

「素晴らしいプランですね」

書店の店主が感心して言った。

「でも、本当にお客さんは来てくれるでしょうか?」

「それについては、佐藤さんからお話しいただけますか?」

翔太が佐藤さんに振ると、佐藤さんは立ち上がった。

「私たちの商店街も、三年前は今の皆さんと同じ状況でした」

佐藤さんの体験談は説得力があった。

「最初は半信半疑でしたが、やってみると予想以上の反響でした。特に外国人観光客に人気で、今では年間三万人が訪れます」

「三万人も?」 
山田のおばさんが驚いた。

「はい。そして、売上も三倍になりました」

参加者たちがざわめいた。

「でも、最初は大変だったでしょう?」

文具店の奥さんが尋ねた。

「確かに大変でした」
佐藤さんは正直に答えた。
「準備に半年、軌道に乗るまでに一年かかりました。でも、今では始めて本当に良かったと思っています」

佐藤さんの言葉に、参加者たちは勇気づけられた。

「それでは、具体的な計画について説明します」

亜矢が立ち上がった。各店舗での体験プログラムを詳しく説明していく。

「田中商店では『金沢のだし文化体験』。昆布とかつお節の目利きから、だしの取り方、そのだしを使った料理まで学べます」

田中夫妻は嬉しそうに頷いた。

「山田茶舗では『茶道体験と茶葉テイスティング』。本格的な茶道から、気軽な茶葉の飲み比べまで、レベルに応じて選択できます」

「面白そうですね」
山田のおじさんが興味深そうに言った。

亜矢は各店舗のプランを丁寧に説明していった。その熱意に、参加者たちも次第に真剣になっていく。

「最後に、費用と収益について説明します」

翔太が再び立ち上がった。

「初期投資は一店舗平均八百万円ですが、補助金活用により実質負担は三百万円程度です」

「三百万円…」
薬局の店主がつぶやいた。

「分割返済も可能です。そして、二年目から黒字転換、三年目で投資回収の見込みです」

翔太の説明は説得力があった。

「皆さん、ご質問はありませんか?」

しばらく沈黙が続いた。そして、田中のおじさんが口を開いた。

「一つだけ心配があります」

「何でしょうか?」

「高橋さんの桜屋が参加しないと、このプランは成功しないのでは?桜屋は商店街の顔ですから」

その指摘に、会議室の空気が重くなった。

「確かにその通りです」
亜矢が答えた。
「父の説得は、私の責任です」

「亜矢ちゃん、大丈夫なの?」
山田のおばさんが心配そうに言った。
「あんなに怒ってたのに」

「時間をかけてでも、必ず理解してもらいます」

亜矢の決意は固かった。

「分かりました」
田中のおじさんが立ち上がった。
「それでは、正式に参加を決めさせていただきます」

拍手が起こった。

「私たちも参加します」

「うちもやってみたい」

次々と参加表明が続いた。結果、六店舗すべてが正式に参加することになった。

「ありがとうございます」

翔太は深く頭を下げた。

「必ず成功させます」

会議が終わり、参加者が帰った後、翔太と亜矢は会議室で二人きりになった。

「やりましたね」

翔太の顔には達成感があった。

「でも、これからが本当の勝負ですね」

亜矢は複雑な気持ちだった。嬉しい気持ちと同時に、父への説得という大きな課題が待っている。

「亜矢さん」
翔太が真剣な表情で言った。
「明日、お父様にお話ししに行きませんか?」

「明日ですか?」

「これ以上時間を置くと、かえって難しくなるかもしれません」

翔太の判断は正しいと思った。

「分かりました。でも、翔太さんも一緒に来てください」

「僕も?でも、お父様は僕を…」

「お一人で行くのは心細いです。それに、翔太さんの真心を直接伝えたいんです」

翔太は迷った。健一郎に会うのは勇気がいる。しかし、亜矢の気持ちを考えると断れなかった。

「分かりました。一緒に行きます」

二人は握手を交わした。

明日はついに、運命の日になる。

六店舗の賛同を得た今、健一郎を説得できるだろうか。

そして、商店街再生という夢を現実にできるだろうか。

会議室を出ると、夜の金沢の街が静かに広がっていた。商店街の明かりが、希望の灯火のように見えた。

「明日、頑張りましょう」

亜矢の言葉に、翔太は力強く頷いた。

長い戦いの、最後の山場がやってくる。