桜散る前に

翌日の夕方、亜矢と翔太は田中商店を訪れた。

店のシャッターが下りた後、田中夫妻は二人を奥の居間に案内してくれた。畳の部屋で、昔ながらの商家の雰囲気が残っている。

「お忙しいところ、ありがとうございます」

翔太は丁寧に頭を下げた。

「いやいや、こちらこそ」
田中のおじさんが笑顔で答えた。 
「面白い話を聞かせてもらおうと思ってね」

田中のおばさんが茶を運んできた。

「亜矢ちゃん、本当に大丈夫なの?一人で」

「はい、心配かけてすみません」

「あなたのお母さん、寂しがってるわよ。時々様子を見に行ってるけど」

亜矢の胸が締め付けられた。しかし、今は前に進むしかない。

「それで、詳しい話を聞かせてもらえるかい?」

田中のおじさんが本題に入った。

翔太は持参した模型を取り出した。商店街全体を再現した精密な模型だった。

「これは…」
田中夫妻は息を呑んだ。

「商店街の完成予想模型です」
翔太が説明を始めた。
「現在の建物の良さを残しながら、新しい機能を付加するプランです」

模型の中では、各店舗が美しく改装され、中央広場では人々が楽しそうに過ごしている。

「田中商店では、この部分に料理教室スペースを設けます」

翔太は田中商店の部分を指した。

「昆布やかつお節の使い方、だしの取り方など、プロの技術を教える講座はいかがでしょう?」

「なるほど」
田中のおじさんが身を乗り出した。
「確かに、最近の若い人はだしの取り方を知らないからね」

「観光客の方にも人気が出ると思います」
亜矢が付け加えた。
「金沢の食文化を体験できるプログラムとして」

「面白いね」
田中のおばさんも興味を示した。 
「でも、私たちにそんなことができるかしら?」

「大丈夫です」
翔太は自信を持って答えた。
「最初は簡単なプログラムから始めて、徐々に充実させていけばいいんです」

「費用はどのくらいかかるの?」

「田中商店の改修費用は約八百万円です」

田中夫妻の表情が曇った。

「八百万円…」

「でも、補助金を活用すれば、実際の負担は半分以下になります」

翔太は資料を見せながら説明した。

「市の商店街活性化補助金が四百万円、観光庁の地域資源活用補助金が二百万円。実質負担は二百万円程度です」

「それでも大金だね」
田中のおじさんが苦笑した。

「分割返済も可能です。改修後の収益増加を見込めば、十分に採算が取れる計算です」

翔太は収支計算書を示した。

「料理教室の収益、体験プログラムの参加費、商品売上の増加を合わせると、月額約二十万円の収益増加が見込めます」

田中夫妻は真剣に資料を検討していた。

「でも」
田中のおばさんが心配そうに言った。
「他のお店が参加してくれなければ、うちだけでは意味がないでしょう?」

「その通りです」
亜矢が答えた。
「だから、一店舗ずつ説得して回っているんです」

「今のところ、反応はどう?」

「正直に言うと、厳しいです」
翔太が率直に答えた。
「でも、田中さんのように真剣に検討してくださる方もいます」

田中のおじさんは考え込んでいた。

「高橋さんはどう言ってるんだい?」

亜矢の顔が曇った。

「父は…まだ理解してくれていません」

「そうか」
田中のおじさんは同情的に言った。
「あの人が反対してると、なかなか難しいね」

「でも、いずれは分かってもらえると信じています」

「亜矢ちゃんの気持ちは分かるよ」
田中のおばさんが優しく言った。
「でも、親子なんだから、もう少し時間をかけて話し合ったらどう?」

「私もそう思います」
亜矢は涙を堪えながら答えた。
「でも、今は父に会うことすらできない状況なんです」

田中夫妻は複雑な表情を見せた。

「分かった」田中のおじさんがついに口を開いた。「うちは参加しよう」

「本当ですか?」翔太が驚いた。

「ああ。面白そうじゃないか」

田中のおばさんも頷いた。

「私も料理を教えるなんて、今まで考えたこともなかったけど、やってみたいわ」

亜矢は感動で胸がいっぱいになった。

「ありがとうございます」

「でも、条件がある」田中のおじさんが厳しい表情で言った。

「はい、何でしょう?」

「高橋さんにも参加してもらうこと。あの人がいなければ、商店街の再生なんて意味がない」

その条件に、亜矢は困った。

「努力します。でも、今すぐは…」

「急がなくていい。時間をかけて、じっくり説得してくれ」

田中のおじさんの言葉に、亜矢は希望を感じた。

「必ず説得してみせます」

その夜、二人は翔太の事務所で今後の戦略を練っていた。

「田中さんご夫妻が賛成してくださったのは大きいですね」

翔太がホワイトボードに「賛成:田中商店」と書き込んだ。

「はい。でも、条件が厳しいです」

「高橋さんの説得ですね」

翔太は亜矢を見つめた。

「もう少し他の店主さんの賛同を得てから、お父様にアプローチしてはいかがでしょう?」

「そうですね。一人では心細いですが、多くの人が賛成していれば、父も考え直してくれるかもしれません」

翌日から、二人はさらに精力的に説得活動を続けた。

書店の主人は興味を示した。

「読み聞かせ会や、金沢の歴史講座なんて面白いですね」

しかし、隣の薬局は消極的だった。

「うちみたいな店に、体験プログラムなんて無理ですよ」

「薬草について学ぶ講座はいかがでしょう?」翔太が提案した。「金沢には古くから伝わる薬草の文化がありますし」

「なるほど…考えてみます」

一週間後、賛成者は五店舗になった。まだ半分に届かないが、確実に進歩している。

「そろそろ、全体説明会を開いてもいいかもしれませんね」

翔太が提案した。

「賛成者だけでも集まって、具体的な計画を話し合いましょう」

「いいアイデアです」

亜矢も賛成した。

「でも、場所はどこで?」

「市民センターの会議室を借りましょう。公的な場所の方が信頼性があります」

説明会の案内を作成し、賛成の意向を示してくれた店主たちに配布した。

「来週の土曜日、午後七時から」

翔太が確認した。

「五店舗の代表者が集まる予定です」

「ドキドキしますね」

亜矢の表情には不安と期待が混じっていた。

「大丈夫です」翔太は励ました。「みなさん、前向きに考えてくださっています」

その時、事務所の電話が鳴った。

「はい、西村建築設計事務所です」

「あの…山田です」

茶葉店の山田さんからだった。翔太は驚いた。

「山田さん、どうされましたか?」

「実は…家内と話し合ったんですが、もう一度お話を聞かせてもらえませんか?」

「もちろんです」

翔太は嬉しそうに答えた。

「いつがよろしいでしょうか?」

「今度の説明会に参加させてもらえますか?」

「大歓迎です」

電話を切ると、翔太は亜矢に報告した。

「山田さんも参加してくださるそうです」

「本当ですか?」

亜矢の顔が明るくなった。

「これで六店舗ですね」

「はい。半分を超えました」

二人は希望に満ちた笑顔を交わした。

説明会まであと三日。きっと良い結果が出るだろう。

そして、その後は、ついに健一郎への説得に挑むことになる。

亜矢は窓の外の桜屋を見つめた。まだ明かりが点いている。

「お父さん、もう少し待っていてください」

心の中でつぶやいた。

「必ず理解してもらいます」

商店街に新しい希望の灯火が、一つずつ点り始めていた。