桜散る前に

翔太が正式に会社を辞めて一週間が過ぎた。

二人は毎日のように会い、商店街の各店舗を回る準備を進めていた。翔太の新しい事務所は、商店街から少し離れた古いビルの一室だった。

「こんな狭い場所で申し訳ありません」

翔太は机を整理しながら謝った。

「とんでもありません。素敵な事務所だと思います」

亜矢は窓から見える金沢の街並みを眺めながら答えた。

机の上には、商店街の詳細なプランが広げられている。翔太が夜遅くまでかけて完成させた力作だった。

「今日はどちらから回りましょうか?」

「まず、山田さんの茶葉店からいかがでしょう?」

亜矢が提案した。

「山田さんは比較的話しやすい方ですし、新しいことにも興味を示してくれるかもしれません」

「そうですね。では、午前中に伺ってみましょう」

二人は資料を抱えて茶葉店「金沢茶舗」に向かった。

店に入ると、山田夫妻が忙しそうに茶葉の袋詰め作業をしていた。

「あら、亜矢ちゃん」

山田のおばさんが顔を上げた。

「家を出たって聞いたけど、大丈夫?」

商店街では既に亜矢の家出が噂になっているようだった。

「ご心配をおかけしてすみません。でも、大丈夫です」

「そう…お父さんもお母さんも心配してるのよ」

山田のおばさんの言葉に、亜矢の胸が痛んだ。しかし、今は前に進むしかない。

「あの、山田さん、お時間があるときに、お話ししたいことがあるんです」

「お話?」

「はい。そちらの方は西村翔太さんです。建築の専門家で…」

山田さんの表情が変わった。

「西村…まさか、再開発の?」

「はい、でも…」

亜矢が説明しようとした時、山田のおじさんが奥から出てきた。

「何の用だ?」

声に警戒心が込もっている。

「山田さん、誤解があります」

翔太が前に出た。

「確かに私は再開発に関わっていましたが、今は住民の皆さんの立場で考えています」

「住民の立場?」
山田のおじさんは冷笑した。
「そんな都合の良い話があるか」

「本当です」
亜矢が必死に説明した。
「翔太さんは会社も辞めて、私たちのために…」

「亜矢ちゃん、騙されてるのよ」

山田のおばさんが心配そうに言った。

「その人はあなたを利用しているだけ」

「違います」

亜矢は強く否定した。

「翔太さんは本当に商店街のことを考えてくれています。プランも見てください」

翔太が資料を取り出そうとした時、山田のおじさんが手を振った。

「見る必要はない。帰ってくれ」

「でも…」

「帰れと言っている」

山田のおじさんの態度は頑なだった。二人は仕方なく店を後にした。

「すみませんでした」

翔太は申し訳なさそうに言った。

「私がいると、かえって警戒されてしまいます」

「そんなことありません」

亜矢は翔太を励ました。

「最初から理解してもらえると思っていませんでした。根気よく続けましょう」

次に訪れたのは、乾物屋の田中商店だった。

「こんにちは、田中さん」

亜矢が声をかけると、田中のおじさんが顔を見せた。

「亜矢ちゃん、元気だったか?」

「はい、ありがとうございます」

「お父さんは心配してるぞ。早く家に帰った方がいい」

また同じような話になりそうだった。亜矢は急いで本題に入った。

「田中さん、商店街の将来について、お話があります」

「将来?」

「はい。こちらの西村さんと一緒に、新しいプランを考えているんです」

田中さんは翔太を見た。警戒心は見せたが、話だけは聞いてくれそうだった。

「どんなプランだ?」

翔太は簡潔に説明した。各店舗の特色を活かした体験プログラム、観光客の誘致、建物の保存と改修。

「面白いアイデアだな」

田中さんは興味を示した。

「でも、お金はどうするんだ?うちみたいな小さな店に、そんな余裕はないぞ」

「段階的に進めます」
翔太が資料を見せながら説明した。
「最初は補助金を活用して、基本的な改修から始めます」

「補助金?そんなものがあるのか?」

「はい。市の商店街振興補助金や、文化財保護の観点からの支援など、いくつかの制度があります」

田中さんは真剣に資料を見つめた。

「悪くないな。でも、みんなが賛成するかどうか…」

「特に高橋さんが大反対してるからな」

田中さんの言葉に、亜矢は胸が詰まった。

「父のことは、私が説得します」

「大丈夫かい?あの頑固親父を説得するのは容易じゃないぞ」

「時間をかけてでも、必ず理解してもらいます」

亜矢の決意に、田中さんは感心したようだった。

「分かった。詳しい話をもう一度聞かせてくれ。家内も交えて話し合ってみよう」

初めての好感触だった。翔太と亜矢は嬉しそうに顔を見合わせた。

午後は、呉服店と文具店を回った。呉服店の主人は高齢で、変化を嫌う傾向があった。

「今さら新しいことなど始められん」

「でも、お店の伝統は活かせます」
翔太が説明した。
「着付け体験や、和装の文化を伝える講座など」

「そんな軽薄なこと、できるか」

結局、呉服店では話を聞いてもらえなかった。

文具店の若い主人は興味を示したが、

「うちの親父が反対するだろうな」

と、消極的だった。

夕方、二人は疲れた様子で翔太の事務所に戻った。

「今日の結果をまとめましょう」

翔太はホワイトボードに店舗名を書き出した。

「好感触:田中商店、興味あり:文具店、反対:茶葉店、呉服店」

「半々ですね」

亜矢は苦笑した。

「でも、完全に無視されることはありませんでした。話は聞いてもらえています」

「そうですね。時間をかければ、理解してもらえそうです」

翔太は前向きに総括した。

「問題は高橋さんの存在です。商店街のリーダー的存在である高橋さんが反対している限り、他の皆さんも賛成しづらいでしょう」

亜矢は複雑な気持ちだった。父の影響力が、こんな形で計画の障害になるとは思わなかった。

「私が直接お父さんと話してみます」

「危険です」
翔太は心配した。
「今はまだ感情的になっているでしょうから」

「でも、いずれは避けて通れない道です」

亜矢の決意は固かった。

その時、事務所の電話が鳴った。

「はい、西村建築設計事務所です」

翔太が出ると、意外な声が聞こえてきた。

「あの、田中ですが…」

「田中さん、今日はありがとうございました」

「実はな、家内と話し合ったんだ。もう一度詳しい話を聞きたいって言うんだよ」

翔太は亜矢に親指を立てて見せた。

「ありがとうございます。いつがよろしいでしょうか?」

「明日の夜、店が閉まってからでもいいかい?」

「もちろんです。よろしくお願いします」

電話を切ると、翔太は嬉しそうに言った。

「田中さんご夫妻が、詳しい説明を求めてきました」

「本当ですか?」

亜矢も嬉しくなった。

「一歩前進ですね」

「はい。諦めずに続けることが大切ですね」

二人は希望を新たにした。確かに険しい道のりだが、理解してくれる人もいる。

帰り道、亜矢は桜屋の前を通った。店の明かりはまだ点いている。

「お父さん、お母さん」

心の中でつぶやいた。

「必ず成功させて、理解してもらいます」

商店街の向こうに夕日が沈んでいく。新しい一日の始まりまで、もう少しだった。

翌日の田中さんとの話し合いが、きっと良い結果をもたらすだろう。

亜矢は希望を胸に、自分のアパートに向かった。