桜散る前に

翔太のアパートの呼び鈴が鳴ったのは、夜の十時を回った頃だった。

「はい」

インターホン越しに聞こえた声に、翔太は驚いた。

「亜矢さん?」

「翔太さん、お忙しいところすみません」

声が震えている。翔太は慌てて玄関に向かった。

ドアを開けると、大きなスーツケースを持った亜矢が立っていた。目は赤く腫れ、疲れ切った様子だった。

「どうしたんですか?こんな夜中に」

「家を出てきました」

亜矢の言葉に、翔太は愕然とした。

「家を出たって…まさか、僕のせいで」

「違います」
亜矢は首を振った。
「私が決めたことです」

翔太は亜矢を部屋に招き入れた。質素だが清潔に保たれた一人暮らしのアパートだった。

「とりあえず座ってください。お茶を入れます」

「ありがとうございます」

ソファに座った亜矢は、ようやく安堵の表情を見せた。

翔太が茶を淹れている間、亜矢は部屋を見回していた。本棚には建築関係の専門書と文学作品が並んでいる。机の上には、彼女との約束のために作った設計図が広げられたままだった。

「お疲れさまでした」

翔太は温かい茶を亜矢の前に置いた。

「ありがとうございます」

亜矢は茶を一口飲んで、ようやく落ち着きを取り戻した。

「お父さんと大変なことになってしまいました」

亜矢は今日の出来事を話した。健一郎の怒り、激しい口論、そして家出という決断。翔太は黙って聞いていた。

「すべて僕のせいです」

翔太は深く頭を下げた。

「僕が無謀なことを提案したせいで、亜矢さんを困らせてしまった」

「違います」
亜矢は強く言った。
「私も同じ気持ちだったから協力したんです。翔太さんのせいじゃありません」

「でも…」

「今更後悔しても仕方ありません」

亜矢の声に決意が込もっていた。

「私は翔太さんのプランを信じています。一緒に実現させましょう」

翔太は亜矢の真剣な表情を見つめた。

「本当にいいんですか?家族と決裂してまで」

「家族のためでもあるんです」

亜矢は窓の向こうに見える商店街の明かりを見つめた。

「お父さんは頑固だけど、心の底では商店街の未来を心配している。私たちの計画が成功すれば、きっと理解してくれます」

翔太は感動していた。これほどまでに信念を貫く強さを持った人を、これまで見たことがなかった。

「分かりました」
翔太は決意を固めた。
「僕も会社を辞めます」

「え?」

「このプランを実現するには、会社の立場では無理です。独立して、住民の皆さんと対等の立場で計画を進めます」

「でも、そんな大きな決断を…」

「亜矢さんが家族を捨ててまで信じてくださったプランです。僕も同じ覚悟で臨みます」

二人は互いを見つめた。それぞれが大きなものを犠牲にして、共通の理想に向かう決意を固めた瞬間だった。

「今夜はここに泊まってください」

翔太が言うと、亜矢は慌てた。

「でも、それは…」

「大丈夫です。僕はソファで寝ます。明日、アパートを探すお手伝いをします」

亜矢は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

「ありがとうございます。翔太さんは本当に優しい方ですね」

「優しいなんて…」
翔太は照れながら言った。
「僕の方こそ、亜矢さんの勇気に励まされています」

翌朝、二人は近所の不動産屋に向かった。商店街から近く、家賃の安いアパートを探すためだった。

「こちらはいかがでしょう?」

不動産屋の担当者が案内したのは、商店街から徒歩五分の古いアパートだった。

「家賃は五万円です。設備は古いですが、清潔に管理されています」

部屋は六畳一間と狭いが、亜矢には十分だった。

「ここにします」

契約を済ませて部屋の鍵を受け取ると、亜矢は改めて現実を実感した。もう後戻りはできない。

「後悔していませんか?」

翔太が心配そうに尋ねた。

「全然」
亜矢は微笑んだ。
「むしろ、やっと自由になれた気がします」

午後、翔太は会社に辞表を提出した。

「西村君、何を考えているんだ?」

上司の田村は驚いた。

「せっかく順調にキャリアを積んでいるのに、なぜこのタイミングで?」

「申し訳ありません。どうしてもやりたいことができました」

「金沢の再開発プロジェクトと関係があるのか?」

田村の鋭い指摘に、翔太は答えに詰まった。

「まさか、住民側に付くつもりじゃないだろうね?」

「…はい」

翔太は正直に答えた。

「住民の皆さんと一緒に、新しい街づくりを考えたいと思います」

田村の顔が険しくなった。

「君は会社を裏切るのか?」

「裏切るつもりはありません。ただ、より良い方法があると思うんです」

「甘い考えだ」
田村は首を振った。
「住民なんて、結局は感情論でしか動かない。合理的な判断ができるのは我々プロだけだ」

「そうは思いません」

翔太は反論した。

「住民の皆さんは、街のことを誰よりもよく知っています。その知識と、我々の技術を組み合わせれば、もっと良いものができるはずです」

「理想論だ」

田村は冷笑した。

「まあ、好きにしろ。ただし、会社の情報は一切持ち出すな」

「承知しています」

翔太は深く頭を下げて、会社を後にした。

夕方、翔太は亜矢の新しいアパートを訪れた。

「お疲れさまでした。辞表は受理されましたか?」

「はい。来週で正式に退職です」

「私のせいで、安定した職を…」

「後悔はしていません」翔太は微笑んだ。「むしろ、やりたい仕事ができる機会をもらったと思っています」

亜矢は翔太の前向きな態度に感動した。

「それで、これからどうしましょう?」

「まず、個人事業主として建築設計事務所を開設します。そして、商店街の他の店主の方々にプランを説明して回る」

「でも、お父さんが反対していることを知ったら、皆さんも警戒するのでは?」

「確かにそうですね」
翔太は考え込んだ。
「でも、亜矢さんがいてくれれば心強いです」

「私でお役に立てるでしょうか?」

「立てます」翔太は断言した。「亜矢さんは商店街で育った。その想いは、必ず伝わります」

二人は夜遅くまで、今後の戦略について話し合った。まず、理解してくれそうな店主から個別にアプローチする。そして、賛同者を増やしていく。

「時間はかかるかもしれませんが、きっと理解してもらえます」

翔太の言葉に、亜矢は希望を感じた。

「頑張りましょう」

翔太が帰る時、亜矢は玄関まで見送った。

「翔太さん」

「はい」

「今日は本当にありがとうございました。一人だったら、きっと心が折れていました」

「僕の方こそ、ありがとうございます。亜矢さんがいなければ、会社を辞める勇気も出なかった」

二人は静かに微笑み合った。

「それでは、また明日」

「はい、おやすみなさい」

翔太が去った後、亜矢は一人になった部屋で窓の外を見つめた。

桜屋の明かりが、遠くに小さく見える。父は今、どんな気持ちでいるだろうか。母は大丈夫だろうか。

寂しさが胸を締め付けたが、亜矢は自分の選択を後悔しなかった。

明日から新しい生活が始まる。翔太と一緒に、夢を現実にするための戦いが始まる。

窓辺に置いた母からもらった和菓子を一つ口に含む。桜屋の味が、口の中に広がった。

「お父さん、お母さん、必ず成功させます」

心の中でそうつぶやいて、亜矢は新しい人生への第一歩を踏み出した。