桜が舞い散る四月の午後、高橋亜矢は四年ぶりに故郷の金沢駅に降り立った。
改札口から見える景色は、記憶の中の風景とは微妙に違っていた。駅前の再開発が進み、見知らぬビルがいくつも建っている。それでも、遠くに見える山々の稜線は変わらず、ほっとため息をついた。
「亜矢!」
母・美奈子の声が聞こえて振り返ると、以前より少し小さくなったような母の姿があった。四年前、東京の大学に進学する時に見送ってくれた時よりも、髪に白いものが混じり、頬の肉も少し落ちている。
「お母さん」
亜矢は重いキャリーケースを引きずりながら母に近づいた。美奈子は娘の顔をじっと見つめると、安堵したような笑みを浮かべた。
「やっと帰ってきたのね。お疲れさま」
「ただいま」
短い言葉を交わすだけで、四年間の空白が埋まっていくような気がした。母の温かい手が亜矢の腕に触れる。東京の慌ただしい日々の中で忘れていた、家族の体温だった。
駅前のタクシー乗り場へ向かいながら、美奈子は控えめに話し始めた。
「お父さんね、今朝からずっとそわそわしてるの。『亜矢はちゃんと和菓子作りができるのか』って、何度も同じことを言って」
亜矢は苦笑した。父・健一郎の性格は昔から変わらない。職人としての誇りが高く、妥協を許さない頑固な父。東京で文学を学んでいた娘が、果たして和菓子職人として通用するのか、不安に思うのも無理はなかった。
「私だって不安よ。四年間、まともに和菓子なんて作ってないもの」
「大丈夫」
美奈子は優しく微笑んだ。
「あなたは小さい頃から、お父さんの仕事を見て育ったもの。手は覚えてるわ」
タクシーが動き出すと、窓の外に懐かしい風景が流れ始めた。浅野川沿いの桜並木、ひがし茶屋街の古い建物群、そして金沢城公園の石垣。四年間を過ごした東京とは全く異なる、ゆったりとした時間が流れている街だった。
しかし、よく見ると変化もある。新しいマンションが建ち、見知らぬ商業施設ができている。街の表情が、少しずつ変わってきているのだ。
「商店街も、随分変わったのね」
亜矢がつぶやくと、美奈子の表情が少し曇った。
「そうなの。再開発の話があって、みんな心配してるのよ」
「再開発?」
「まだはっきりしたことは決まってないけど、古い建物を壊して、新しい商業施設を作るっていう話があるの。桜屋も、もしかしたら…」
美奈子は最後まで言わなかったが、亜矢には十分伝わった。三代続く老舗和菓子店「桜屋」も、時代の波に飲み込まれようとしているのだ。
タクシーは商店街の一角で止まった。見慣れた「桜屋」の看板が目に入る。木造二階建ての古い建物は、四年前と変わらずそこに佇んでいた。しかし、周囲の店舗には「閉店」の張り紙が貼られているところもある。
「お帰りなさい」
美奈子が先に店に入ると、奥から健一郎が現れた。白い割烹着姿の父は、四年前よりもさらに威厳を増しているように見える。
「父さん」
「うむ」
健一郎は短く頷いただけだった。感情を表に出すのが苦手な父らしい反応だったが、その目には安堵の色が見えた。
店の中は昔のままだった。ショーケースに並ぶ色とりどりの和菓子、畳敷きの客席、そして奥の工房から漂ってくる甘い香り。亜矢の心に、子供の頃の記憶が蘇ってくる。
「明日から修行だ」健一郎の声は厳格だった。「大学で何を学んだかは知らんが、ここでは一から始める気持ちでやれ」
「はい」
亜矢は背筋を伸ばして返事をした。東京での自由な学生生活は終わった。これからは職人として、そして桜屋の跡継ぎとして生きていかなければならない。
その夜、二階の自分の部屋で荷物を片付けながら、亜矢は窓から見える夜景を眺めた。金沢の街に点在する明かりは、東京に比べればずっと少ない。しかし、その一つ一つに、長い歴史と人々の営みが込められているように思えた。
机の引き出しから、大学時代に書いた小説の原稿を取り出す。文学への憧れを抱いて東京に出たが、今はその夢も封印しなければならない。
「仕方ないよね」
つぶやいて、原稿を再び引き出しにしまった。明日からは和菓子職人としての新しい人生が始まる。父の期待に応えなければならない。
しかし、心の奥で小さな声がささやいていた。
本当にこれで良いのだろうか、と。
窓の外で、夜桜が静かに散っていた。
改札口から見える景色は、記憶の中の風景とは微妙に違っていた。駅前の再開発が進み、見知らぬビルがいくつも建っている。それでも、遠くに見える山々の稜線は変わらず、ほっとため息をついた。
「亜矢!」
母・美奈子の声が聞こえて振り返ると、以前より少し小さくなったような母の姿があった。四年前、東京の大学に進学する時に見送ってくれた時よりも、髪に白いものが混じり、頬の肉も少し落ちている。
「お母さん」
亜矢は重いキャリーケースを引きずりながら母に近づいた。美奈子は娘の顔をじっと見つめると、安堵したような笑みを浮かべた。
「やっと帰ってきたのね。お疲れさま」
「ただいま」
短い言葉を交わすだけで、四年間の空白が埋まっていくような気がした。母の温かい手が亜矢の腕に触れる。東京の慌ただしい日々の中で忘れていた、家族の体温だった。
駅前のタクシー乗り場へ向かいながら、美奈子は控えめに話し始めた。
「お父さんね、今朝からずっとそわそわしてるの。『亜矢はちゃんと和菓子作りができるのか』って、何度も同じことを言って」
亜矢は苦笑した。父・健一郎の性格は昔から変わらない。職人としての誇りが高く、妥協を許さない頑固な父。東京で文学を学んでいた娘が、果たして和菓子職人として通用するのか、不安に思うのも無理はなかった。
「私だって不安よ。四年間、まともに和菓子なんて作ってないもの」
「大丈夫」
美奈子は優しく微笑んだ。
「あなたは小さい頃から、お父さんの仕事を見て育ったもの。手は覚えてるわ」
タクシーが動き出すと、窓の外に懐かしい風景が流れ始めた。浅野川沿いの桜並木、ひがし茶屋街の古い建物群、そして金沢城公園の石垣。四年間を過ごした東京とは全く異なる、ゆったりとした時間が流れている街だった。
しかし、よく見ると変化もある。新しいマンションが建ち、見知らぬ商業施設ができている。街の表情が、少しずつ変わってきているのだ。
「商店街も、随分変わったのね」
亜矢がつぶやくと、美奈子の表情が少し曇った。
「そうなの。再開発の話があって、みんな心配してるのよ」
「再開発?」
「まだはっきりしたことは決まってないけど、古い建物を壊して、新しい商業施設を作るっていう話があるの。桜屋も、もしかしたら…」
美奈子は最後まで言わなかったが、亜矢には十分伝わった。三代続く老舗和菓子店「桜屋」も、時代の波に飲み込まれようとしているのだ。
タクシーは商店街の一角で止まった。見慣れた「桜屋」の看板が目に入る。木造二階建ての古い建物は、四年前と変わらずそこに佇んでいた。しかし、周囲の店舗には「閉店」の張り紙が貼られているところもある。
「お帰りなさい」
美奈子が先に店に入ると、奥から健一郎が現れた。白い割烹着姿の父は、四年前よりもさらに威厳を増しているように見える。
「父さん」
「うむ」
健一郎は短く頷いただけだった。感情を表に出すのが苦手な父らしい反応だったが、その目には安堵の色が見えた。
店の中は昔のままだった。ショーケースに並ぶ色とりどりの和菓子、畳敷きの客席、そして奥の工房から漂ってくる甘い香り。亜矢の心に、子供の頃の記憶が蘇ってくる。
「明日から修行だ」健一郎の声は厳格だった。「大学で何を学んだかは知らんが、ここでは一から始める気持ちでやれ」
「はい」
亜矢は背筋を伸ばして返事をした。東京での自由な学生生活は終わった。これからは職人として、そして桜屋の跡継ぎとして生きていかなければならない。
その夜、二階の自分の部屋で荷物を片付けながら、亜矢は窓から見える夜景を眺めた。金沢の街に点在する明かりは、東京に比べればずっと少ない。しかし、その一つ一つに、長い歴史と人々の営みが込められているように思えた。
机の引き出しから、大学時代に書いた小説の原稿を取り出す。文学への憧れを抱いて東京に出たが、今はその夢も封印しなければならない。
「仕方ないよね」
つぶやいて、原稿を再び引き出しにしまった。明日からは和菓子職人としての新しい人生が始まる。父の期待に応えなければならない。
しかし、心の奥で小さな声がささやいていた。
本当にこれで良いのだろうか、と。
窓の外で、夜桜が静かに散っていた。



