金曜の夜。
 月末処理で遅くなった私は、社内で数少ない残業組だった。
 外は雨。駅までの道を歩くのが億劫で、エントランスでタクシーを呼ぼうとスマホを取り出した、その時——

「彩花さん」

 背後からかけられた声に振り向くと、そこには久遠玲央が立っていた。
 傘を片手に、にこやかな笑顔。だが、その目の奥には妙な光がある。

「遅くまでお疲れさま。送っていくよ」

「いえ、大丈夫です。タクシーを——」

「いいから。話したいことがある」

 そう言うと、玲央は私の腕を掴み、そのまま引き寄せた。
 突然の力強さに抵抗しようとするが、彼は驚くほど力が強い。

「——やめてください!」

「少しだけでいい。俺の話を聞いてほしいんだ」

 そのまま連れて行かれたのは、隣接する久遠グループ所有のビル。
 最上階の応接室に押し込まれ、鍵をかけられる。



「こんなこと、していいと思ってるんですか!」

「いいんだよ。俺は本気だ。……あんたを篠崎から奪う」

「……っ!」

 冗談だと笑い飛ばそうとしたが、その瞳は本気だった。
 玲央はゆっくりと歩み寄り、私の行く手を塞ぐように壁際へ追い込む。

「仕事中もプライベートも、いつもあんたは彼のことしか見てない。そんなの耐えられない」

「だからって……こんなやり方——」

「俺の方が幸せにできる」

 ——怖い。
 彼の言葉よりも、その視線と行動が恐ろしかった。



 その時、廊下から足音が響いた。
 硬質な革靴が床を叩く音。
 次の瞬間、重い扉が勢いよく開く。

「……そこから離れろ」

 低く冷たい声。
 颯真が立っていた。
 いつもの整ったスーツ姿なのに、その目は氷のように鋭い。

「お前……どうやって——」

「鍵なんか意味がない。俺の妻に指一本触れるな」

 颯真が一歩踏み込むと、室内の空気が一変する。
 玲央は顔色を変え、私の腕を放した。

「連れ去り、監禁——立派な犯罪だ。すぐに処理する」

 颯真の低い声に、私は初めて全身の力が抜けるのを感じた。