あの日以来、久遠玲央は何かにつけて私に近づいてきた。
 社内の廊下で偶然を装ったり、エレベーターで乗り合わせたり——あまりに頻繁で、偶然とは思えない。

「彩花さん、今日もお綺麗ですね。会議室までご一緒しても?」

 出社三日後の朝、またも廊下で声をかけられた。
 私は業務用の笑顔を浮かべて頷く。

「ありがとうございます。でもこの後、常務の予定で——」

「篠崎常務ばかりじゃもったいないですよ。たまには息抜きもしないと」

 その言葉にどう返すべきか迷った瞬間——

「息抜きなら、俺が連れていく」

 背後から低く鋭い声。
 振り向くと、颯真がこちらに歩いてくる。
 玲央の笑顔が一瞬固まり、すぐに軽く肩をすくめた。

「それはそれは……ではまた後ほど」

 玲央が去ったあと、颯真は無言で私を会議室とは逆方向の廊下へと促した。



「……何をしてる」

 人気のない資料室に入るなり、颯真は低い声で問いかける。
 腕を掴む力は強くないのに、逃げられない。

「何って……業務上の会話をしていただけです」

「業務上? あの男の視線がどんなものか、気づかないわけじゃないだろう」

「……颯真さん、職場では——」

「職場では? 俺は上司だ。部下を危険から守るのは当然だろう」

「危険って……そんな大げさな——」

「お前は自覚がない。だから余計に腹が立つ」

 吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その手は背中に回り、私を抱き寄せる。
 胸板越しに聞こえる心臓の音が、少し早い。

「……俺の妻だってことを忘れるな」

「忘れてません。でも——」

「でも?」

「……そんな風に言うなら、いっそ公表すればいいじゃないですか」

 沈黙。
 颯真の目がわずかに揺れ、それからまた冷たい色を取り戻す。

「まだ、その時じゃない」

 理由を言わないまま、彼は私の髪を一撫でして離れた。
 その背中に、何かを隠している影が見えた気がした。