午後の会議は長引き、終業時刻を過ぎても私は資料の整理に追われていた。
 颯真はまだ役員会議に出席中で、戻ってくる気配はない。
 ——こういう時の彼は、きっと冷たく鋭い目をしている。
 昼間は、私を妻だとは決して思わせない距離感を守り抜く。

 資料をすべて片付けて秘書課を出たのは、午後八時を回っていた。
 タクシーで自宅マンションに帰り、玄関の鍵を開ける。
 途端に、奥から足音が近づいてきた。

「おかえり」

 声のトーンが昼間とはまるで違う。
 柔らかく、低く、そして私だけを包み込む響き。
 颯真はスーツのジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくった姿で立っていた。

「会議、遅くまでだったんじゃないですか」

「お前が帰る時間に合わせて帰ってきた。……一人で夕飯、寂しいだろう?」

 言いながら、キッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。
 テーブルには、私の好きな煮込みハンバーグと温かいポタージュ。

「……作ったんですか?」

「文句はないだろう」

「……はい」

 席につくと、颯真は私の隣に腰を下ろし、自然にワインを注いでくれる。
 昼間は指一本触れないくせに、夜になるとこんなに距離が近い。

「食べさせてやろうか?」

「自分で食べられます」

「そう言うな。……ほら、口開けろ」

 フォークに刺した一口を差し出され、仕方なく口に含む。
 ——美味しい。
 頬が緩みかけたのを見逃さず、彼が小さく笑った。

「やっぱり、俺が作ると機嫌がいいな」

「別に……」

「昼間は“常務”なんて呼びやがって。悔しいから、夜はもっと甘やかす」

 そう言って、髪を撫で、額に軽く口づける。
 熱がゆっくりと広がり、さっきまでの疲れが溶けていくようだった。

 ——昼の彼と夜の彼。
 どちらも私の知っている、そして誰にも見せない“本当の夫”だ。