「狼……?」
 
 私のつぶやきに、銀の狼はこちらを見る。
 逆光のせいなのか、その体は景色が透けて見える。
 どこか現実味のない、実体感のない、半透明な輪郭。
 
 まるで幽霊だ。
 
 突拍子もないことを考えてしまったのは、この状況に流されているからなのかもしれない。
 
 半透明な狼は私をじっと見つめる。
 その視線だけはやけに現実味があった。
 そしてわずかに目を見開いた。

 琥珀色の瞳だ。
 
「傷が」
 
「え、あ」
 
 そう言われて忘れかけていた傷を見た途端、一気に痛みがぶり返す。
 思わず顔をしかめると、狼は低く唸る。
 一度地面すれすれに体勢を低く沈めると、反動を使ってカラスの渦に飛び込んだ。
 
「ひえっ」
 
 ギャア、というカラスの鳴き声を喰らわんばかりの吠え声が響く。
 爪が、牙が、空を切り裂いて、空を舞う黒点を地に落とす。
 
 これ、は……現実?
 
 テレビのネイチャー番組でもお目にかかれない臨場感と、味わいたくない威圧感に押し潰されそう。
 泣き出したくて、でも泣いたら終わりな気がして唇を噛みしめる。
 すると、膝の上に、なにかもふもふした毛玉がとびこんできた。
 
「だいじょーぶ?」
「…………う、さぎ?」
 
 毛玉はウサギだった。
 ていうかどこから来たの!?
 
 雪のように真っ白な毛並み。
 でもやっぱりホログラムみたいに体が透き通っている。
 体越しに私の制服のスカートが見えているのは見間違いではなさそうだ。
 知ってか知らずか、赤い瞳がくりくりとこちらを見上げている。
 
「へっ?」
 
「あ、びっくりした? びっくりしたよねえ。そりゃそーだ。でも痛みどっか行ったんでなーい? 人間たら一度にふたつのことは考えられないイキモノだからさあ」
 
「えっえっ」
 
 喋ってる。
 ウサギが。
 しかもなんかタメ口でまくし立ててくる。
 
 勝手に私の膝でペラペラ喋りだしたウサギは、取り付く島もないほどに弾丸トークを、ううん機関銃トークを絶やさない。
 相槌を打つ暇なんてハナからなくて、瞬きをしているうちに追いていかれそうだ。
 
「あーほらほら、嫌なこと考えちゃあダーメ。ボクの可愛さだけ見ていてよ? しょうがないなあ……伝家の宝刀、しっぽぴょこぴょこ、見る?」
 
「し、しっぽ?」
 
 だめだ。
 何がなにやらさっぱりわからない。
 痛みを感じないように気を使ってくれている……らしい、のはありがたいけれど、今度は目眩がしてきた。
 
「ちょっとちょっとお? ホントにだいじょぶ?」
 
「え、あ、うう」
 
 ウサギがブレて見えるのは超高速反復横跳びしているから……じゃない、よね。
 
 これ、は、まずいかも~!?
 
「おっと」
 
 ぐらりと傾きかけた背中が、なめらかな温もりに支えられた。
 ベンチの背もたれにしては硬すぎる。
 
「気分が悪いなら、よりかかって構いませんよ」
 
「鹿……!?」
 
 もう何が出てきても驚かないぞ、と思ったけれど驚いた。
 
 鹿だ。
 
 よく奈良の観光ポスターで見る立派な(ツノ)が生えてる。だから牡鹿だ。
 
 そしてやっぱり、角も体もどこか現実味がないほどに透けている。
 
「顔色が悪い。恐ろしい思いをされたのですね」
 
「え、まあ、それなりには?」
 
 ようやくまともな会話ができた。
 相手は鹿だけど。
 
「あの、私、カラスに襲われて……ミサンガが、えっと、そのミニ神社? 祠? にお供えしようと」
 
 支離滅裂になりながらも鹿に状況を説明していると、彼は落ち着かせるようにゆっくりと頷いた。
 
「お話は後ほど。今はマカミを待ちましょう。……ああ、終わったようですね」
 
「マカミ?」
 
 鹿はつんと鼻先を持ち上げる。
 そちらを見ろという合図だろう。
 
「……あ」
 
 銀の狼が、ぶるりと体を大きく震わせていた。
 ばらばらと落ちるのはカラスの黒い羽根だ。
 汚れ、というか穢れを落とす仕草に見える。
 
 黒の残骸の中、凛と佇む銀色が空を見上げ、ゆるりと視線をこちらに向ける。
 
 琥珀色の瞳と目が合った。
 
(きれい)
 
 足音を立てずに狼はこちらに歩み寄る。
 そして私の前にぽとりと何かを置いた。
 
 ミサンガだ。
 
 少し汚れてしまっているけれど、押し洗いをすれば綺麗になるはず。
 
「まさか……これを、取り戻すために?」
 
「ああ」
 
「どうして……」
 
「お前の献身に応えるためならなんでもしよう」
 
 献身? 私、この狼に会ったことなんて無いのに。
 
「だから、俺に命じてくれ。美羽。お前の望みを叶えたい」
 
 そう。
 はっきりと、銀の狼が私の名前を口にした。
 
 ぐらり。
 視界が揺れる。
 焦点がぼやける。
 
 手のひらがずきんと痛んで意識を繋ぎとめようとしていたけれど、あえなく視界はブラックアウトした。