土曜の昼。駅前のモールは、ポップコーンと洗剤の匂いが混ざっていた。
私は弟のパーカーとキャップ。制服じゃない分、少しだけ気が大きい。彼はチケットを掲げる。
「通路側=俺、窓口で死守してきた」
「そこ、そんなに命がけの席?」
「非常時にさっと盾になるには、出口近いほうがいいだろ」
「看板くん、今日も多機能」
館内の暗さに目が慣れる前、座席の肘掛けで肘がかすかに触れた。
私は一瞬だけ呼吸を止め、何事もなかった顔でスクリーンに視線を戻す。
予告編でホラー音が鳴って、二人同時にドリンクを落としかける。
「交通整理!」
「右車線ゆずって!」
笑いを飲み込む。スクリーンの明滅に合わせて、心臓も明滅する。
キャップのつばの影で、彼の横顔が半分だけ見える。通路側で通行人が通るたび、彼はなぜか会釈していた。礼儀の化身。
映画が終わるころ、ポップコーンは塩派 vs キャラメル派の攻防戦の跡。
私は長い一本を勝ち取って、どや顔をする。
「長ポテ——じゃない、長ポップコーンは発見者のものです」
「共有資源派の抗議をここに表明します」
退館するとき、自動ドアの外を黒い影がすっと横切った。
胸の中のアンテナが、ぴん、と立つ。彼は私の視線に気づき、何も言わず通路側に一歩寄った。
*
フードコート。ポテトを前に、議題が延長戦に突入する。
「長いのは共有でも、曲がってるのは——」
「発見者のもの」
「強欲のモンスター」
「自覚はある」
笑って、同時にくしゃみが一回。彼のだ。
通りすがりのコートに猫の毛がついているのを彼が見つけて、もう一回。
「……花粉?」
「季節違い。たぶん、毛」
「ふーん」
彼はさりげなく席を立ち、入口側に立って通行の盾みたいに腕を組む。私はその背中を見上げて、ストローに口をつけた。甘い。騒がしい。昼の喧噪は、夜より怖くない。
*
モールを出て、住宅街へ。ブロック塀が影を落とし、アスファルトに四角い模様を作る。
角をひとつ曲がるたびに、私は肩の力が少し抜ける。男装は、やっぱり話しやすいモードだ。異性って意識が薄くなるから、言葉がちゃんと出てくる。
「映画さ、最後の方で泣いてた?」
「汗」
「目から?」
「新陳代謝」
「便利ワードきた」
彼は笑って、いつものように車道側に回る。二歩目で歩幅が揃う。
生け垣の並ぶ路地に入ったとき、カサ。低い音。葉の奥で、黒いものがしなるのが見えた気がした。
私と彼は、同時に止まり、同時にのぞく。
——何もいない。たぶん。……ほんとうに?
「行こ」
「うん」
もう二つ角を曲がれば、私の家。門柱の表札が白く光る。
彼は玄関から二歩分だけ下がって立ち、顎で合図した。
「ここまで」
「分かってる」
鍵を回し、扉を開け、靴を脱いで上がる。ふり返って内鍵をガチャ、チェーンをカチャ。スマホを出して、いつもの短い一文。
〔入った〕
ガラス越しに彼の親指がすっと立つ。返事はしない。短い合図のほうが、今はまだいい。
扉を閉める直前、ごく低い喉鳴りみたいな音が一度だけ。
私は息を止めて、耳を澄ます。……冷蔵庫のモーター音だけ。
階段を上がる途中、通知が一つ。
〔OK。次は商店街の買い出し、護衛します〕
思わず笑ってしまう。護衛って言い方、ちょっと好きだ。
キャップを外して、鏡に映る自分を見る。少しだけ頬が赤い。
窓の外、生け垣の上に、黒い影が一瞬、尾を立てた……気がした。すぐに消える。たぶん。
でも、今日はなんだか、家までの道が楽しかった。
私は弟のパーカーとキャップ。制服じゃない分、少しだけ気が大きい。彼はチケットを掲げる。
「通路側=俺、窓口で死守してきた」
「そこ、そんなに命がけの席?」
「非常時にさっと盾になるには、出口近いほうがいいだろ」
「看板くん、今日も多機能」
館内の暗さに目が慣れる前、座席の肘掛けで肘がかすかに触れた。
私は一瞬だけ呼吸を止め、何事もなかった顔でスクリーンに視線を戻す。
予告編でホラー音が鳴って、二人同時にドリンクを落としかける。
「交通整理!」
「右車線ゆずって!」
笑いを飲み込む。スクリーンの明滅に合わせて、心臓も明滅する。
キャップのつばの影で、彼の横顔が半分だけ見える。通路側で通行人が通るたび、彼はなぜか会釈していた。礼儀の化身。
映画が終わるころ、ポップコーンは塩派 vs キャラメル派の攻防戦の跡。
私は長い一本を勝ち取って、どや顔をする。
「長ポテ——じゃない、長ポップコーンは発見者のものです」
「共有資源派の抗議をここに表明します」
退館するとき、自動ドアの外を黒い影がすっと横切った。
胸の中のアンテナが、ぴん、と立つ。彼は私の視線に気づき、何も言わず通路側に一歩寄った。
*
フードコート。ポテトを前に、議題が延長戦に突入する。
「長いのは共有でも、曲がってるのは——」
「発見者のもの」
「強欲のモンスター」
「自覚はある」
笑って、同時にくしゃみが一回。彼のだ。
通りすがりのコートに猫の毛がついているのを彼が見つけて、もう一回。
「……花粉?」
「季節違い。たぶん、毛」
「ふーん」
彼はさりげなく席を立ち、入口側に立って通行の盾みたいに腕を組む。私はその背中を見上げて、ストローに口をつけた。甘い。騒がしい。昼の喧噪は、夜より怖くない。
*
モールを出て、住宅街へ。ブロック塀が影を落とし、アスファルトに四角い模様を作る。
角をひとつ曲がるたびに、私は肩の力が少し抜ける。男装は、やっぱり話しやすいモードだ。異性って意識が薄くなるから、言葉がちゃんと出てくる。
「映画さ、最後の方で泣いてた?」
「汗」
「目から?」
「新陳代謝」
「便利ワードきた」
彼は笑って、いつものように車道側に回る。二歩目で歩幅が揃う。
生け垣の並ぶ路地に入ったとき、カサ。低い音。葉の奥で、黒いものがしなるのが見えた気がした。
私と彼は、同時に止まり、同時にのぞく。
——何もいない。たぶん。……ほんとうに?
「行こ」
「うん」
もう二つ角を曲がれば、私の家。門柱の表札が白く光る。
彼は玄関から二歩分だけ下がって立ち、顎で合図した。
「ここまで」
「分かってる」
鍵を回し、扉を開け、靴を脱いで上がる。ふり返って内鍵をガチャ、チェーンをカチャ。スマホを出して、いつもの短い一文。
〔入った〕
ガラス越しに彼の親指がすっと立つ。返事はしない。短い合図のほうが、今はまだいい。
扉を閉める直前、ごく低い喉鳴りみたいな音が一度だけ。
私は息を止めて、耳を澄ます。……冷蔵庫のモーター音だけ。
階段を上がる途中、通知が一つ。
〔OK。次は商店街の買い出し、護衛します〕
思わず笑ってしまう。護衛って言い方、ちょっと好きだ。
キャップを外して、鏡に映る自分を見る。少しだけ頬が赤い。
窓の外、生け垣の上に、黒い影が一瞬、尾を立てた……気がした。すぐに消える。たぶん。
でも、今日はなんだか、家までの道が楽しかった。


