翌日。校門を出たところで、彼がビニール袋を振った。
「テスト装備持ってきた」

「なにそれ」

「弟のパーカーとキャップ。遠目なら男子に見える。抑止力、上がる」

「……私、着ぐるみじゃないんだけど」

「サイズはゆるいほうが“それっぽい”。公園で上から羽織るだけね」

 住宅街手前の小さな公園。ベンチの横で私はブレザーの上からグレーのパーカーをかぶる。鏡代わりにスマホの黒画面を見ると、フードがでかすぎて顔の半分が消えた。

「視界ゼロ」

「キャップ足して、つばを少し下げる。——うん、男子っぽい」

「っぽい、って便利な言葉だよね」

「よし、男子っぽ練習いきます。まず歩幅」

「どれくらい?」

「俺についてきて——って、広すぎ。膝やる」

「男子の膝はそんなに弱くない」

「じゃ次、ポケットに手。片方だけ」

 言われた通りに手を入れたら、鍵がジャラ、と鳴った。

「音が逮捕」

「それは鍵のせい」

「声も練習。ちょい低めで『おつかれ』」

「……おつかれ」

「逆に怪しい」

「むずかしいね男子」

「男子も男子むずかしいから」

 くだらないやりとりをしながら商店街へ。彼は自然に車道側、私は内側。
 信号待ちで、彼がふいにこちらを見る。

「そのフード——」

「なに」

「……似合う」

 小声すぎて、風が持っていく。私は聞こえないふりをした。たぶん、聞こえてる。

     *

 週末の昼。制服じゃなく部屋着にジーンズ、上から例のパーカー。
 マックでテスト。彼は入口が見える席をキープして、通路側に座る。「通りに面するのは俺」の癖が、座席でも発動してる。

「塩多め派?」

「バター多め派」

「それポテトじゃなくて映画のほう」

「じゃあ議題変更。長いポテトは誰のものか問題」

「発見者のもの」

「異議あり。共有資源」

 ポテトの端を同時につまんで、指がぶつかる。私は慌てて離す。
 ストローを同じ瞬間に差そうとして、またぶつかる。

「交通整理が必要」

「看板くん、出番」

「看板は飲み物を配車しません」

 笑って、また食べる。窓の外を、黒い影がすっと横切った。うさぎの耳みたいなアンテナが胸の中に立つ。
 彼はわざと話題を変える。

「映画、今度、通路側なら俺がチケット取る」

「まだやるの? 彼氏役」

「帰り道だけじゃ足りなくなってきたら、昼の混雑も守りたいだけ」

「はいはい、看板仕事、拡張」

 紙のトレイを片付け、外へ出ると、入口の脇で風が旗をはためかせる音。私は反射的にそちらを見る。……何もいない。たぶん。
 彼の横で、くしゅん、と小さなくしゃみが一回だけ落ちた。

「風、冷たい?」

「いや、なんか——鼻がムズ」

「花粉?」

「季節違いじゃね?」

 首をかしげつつ、住宅街へ戻る。

     *

 生け垣の並ぶ路地。私の家まであと三つ角。
 その二つ目を曲がったとき、カサ。低い音が、葉の奥でひとつ。

 二人で同時に止まり、そっとかがむ。
 葉の隙間に、真っ黒な影が一瞬だけしなる。……風かもしれない。ほんとうに、たぶん。

「——行こ」

「うん」

 家の門の前。門柱の表札が午後の光で白い。彼は玄関から二歩分離れて立ち、手で小さく矢印を描く。

「ここまで」

「分かってる」

 鍵を回して扉を開け、靴を脱いで上がる。ふり返って内鍵をガチャ、チェーンをカチャ。スマホを出して短く打つ。

〔入った〕

 送信。ガラス越しに彼の親指がすっと立つ。返事は、いらない。短い合図のほうが、今はちょうどいい。

 扉を閉めかけたとき、ごく低い喉鳴りみたいな音が、外から一度だけ。
 私はノブに手を置いたまま、耳を澄ます。……静か。冷蔵庫のモーター音だけ。

 階段を上がる途中、通知が一つ。

〔OK。また明日、同じ時間で〕

 画面に映る自分は、フードのせいでまだ少し男子っぽい。
 笑って、フードを下ろした。
 胸の中のアンテナは、まだピンと立っている。けれど、怖さよりも、安心のほうが少し勝っていた。