放課後の廊下は、プリントと笑い声でむわっとしていた。
 靴箱のところで、私は声を落とす。

「……最近さ、見られてる気がする。家まで歩いてると、ずっと」

 近所に住む少し気になる男子に声をかける。
 彼はスニーカーのかかとを踏みつつ、目だけこっちへ。
「誰に?」

「分かんない。振り返るといない。でも、植え込みの影とか、フェンスの向こうとか」

 三秒考えて、彼は指を一本立てた。

「じゃ、俺が送る。校門から家の門まで。——そのあいだだけ、俺は彼氏役」

「……急じゃない?」

「抑止は“札”が効く。『工事中』って札があるだけで人は避ける、みたいな。**“彼氏中”**って雰囲気がいちばん手っ取り早い」

「看板扱い、やめて」

「高性能看板だから。歩くし、しゃべる」

「しゃべらないで歩いて。……条件、一個。手はつながない。それは無理」

「了解。境界線、大事だよな。——俺からも一個だけ」

「なに」

「玄関に入って鍵かけたら、『入った』って送って。そこまで見届けたら、安心して帰れる」

「それなら分かる。私が送る」

     *

 校門を出る。風が涼しくて、ランドセルの低学年たちが角を曲がって消える。
 私たちは並んで歩いた。いつもの通学路のはずなのに、二人だと少し違う道みたいに感じる。

「まずは車道側は俺。で、交差点は俺が左右見るから、君は前だけ見てて」

「信号機、しゃべった」

「最新モデルの看板だから」

 くだらなすぎて笑ってしまう。笑うと、肩が軽くなる。

「彼氏役って、何しゃべればいいの」

「えー……給食反省会は?」

「シチューのじゃがいも、無駄に強かった」

「分かる。あと、きなこ揚げパンの粉」

「服に落ちる」

「うち、コロコロ常備。貸す」

「どんな家」

 商店街を抜けると、小さな公園。すべり台の横を通って住宅街へ。ブロック塀の影が、私たちの足首に斜めの線を描く。

「呼び方、練習しよ。名前に**“ねえ”**をつける」

「幼児か」

「難易度ひくめ。——ねえ、俺」

「誰に声かけてんの」

「初日だし」

 角を曲がると、生け垣の前。ちょうどそのとき——

 カサ。

 低い音。二人とも同時に止まる。葉の隙間をのぞく。
 ……風でビニール袋が転がっただけ。たぶん。……たぶん。

「——行こ」

「うん」

 角をもう二つ曲がると、私の家の前。門柱の上の表札が、夕日で少し金色だ。彼は玄関から二歩分だけ離れて立ち止まり、顎で合図する。

「ここまで。入ったら連絡」

「了解」

 私は鍵を出して扉を開ける。靴を脱いで上がり、くるりと振り返ってもう一枚の鍵をガチャと回す。チェーンもカチャ。スマホを出して打つ。

〔入った〕

 送信。ガラス越しに外を見ると、彼のスマホが一瞬だけ光った。彼は親指を立てるだけで、返事はしない。短い合図のほうが、今はちょうどいい。

 私はそっと玄関を閉める。ドアの向こう、足音がゆっくり遠ざかる……はずだった。
 けれど、門の外の生け垣で、もう一度、カサ。

 のぞき穴から見えるのは、夕方の路地だけ。
 深呼吸を一回。スマホの画面に私の顔が映って、さっきより少し軽い。

 階段を上がる途中、メッセージが一つだけ届いた。

〔OK。じゃ、また明日〕

 吹き抜けの窓から、路地が細く見える。
 さっきの生け垣は、もう動かない。ただの緑。——たぶん。

 制服のポケットで、指先がさっきの空気を探す。何も触れない。
 でも、家までの道は、今日は短かった。