穏やかな日々は長くは続かなかった。
月下の小演奏会からわずか一週間後、宮廷の廊下には妙な噂が流れ始めていた。
――「皇后陛下が、地方貴族と密会しているらしい」。
聞くだけで荒唐無稽だとわかる話だが、囁く声には確かに悪意が宿っていた。
その日の午前、侍女ティナが青ざめた顔で駆け込んできた。
「皇后陛下……! 籠姫様が、“茶会”を開くと……招待状が」
手渡された厚紙には、流麗な筆跡で“ご出席の栄誉を”と記されている。
――籠姫エルミナの誘いは、断れば“非礼”、受ければ“罠”だ。
私は深く息をつき、静かに頷いた。
「出席するわ。……逃げても、つけ込まれるだけだから」
茶会の場は、宮廷の東翼にある“金の間”だった。
高い天井、黄金の装飾を施した壁、磨かれた床に映る光。
その中心でエルミナは白銀のドレスをまとい、まるで主役のように微笑んでいた。
「まあ、皇后陛下。お忙しい中ようこそおいでくださいました」
「お招き、感謝いたします」
形式通りの挨拶を交わすと、彼女はすぐに鋭い一手を繰り出した。
「ところで……最近、皇后陛下はとても親しくしている方がいらっしゃるとか」
場にいた貴婦人たちの視線が、一斉に私に注がれる。
「……親しく、ですか?」
「ええ。辺境伯の嫡男――名を、レオンと言いましたかしら?」
わざとらしい無邪気な笑み。
「夜の回廊で二人きりで会っているのを、見かけた者がいるそうですの」
ティナが息を呑む音が背後から聞こえた。
レオンは確かに私に忠告をくれたが、それは公務の一環だ。
「確かにお会いしましたが、それは陛下からの文を届けるためでした」
「まあ……そうでございますの? けれど、人目の少ない場所で、しかも夜に?」
周囲がざわめく。思惑通りの反応だ。
その時、背後の扉が音を立てて開いた。
「……何の話だ」
低い声。振り向けば、漆黒の髪と金の瞳が光の中に現れる。
「陛下……!」
場の空気が一瞬で張り詰めた。
カリスはゆっくりと歩み寄り、私の隣に立つ。
「皇后が誰と会おうと、それは余の許可を得ている」
「ですが……」
「エルミナ、余の名を騙るような噂を流す者は、誰であれ許さぬ」
彼の声は冷たく、刃のようだった。
エルミナの笑顔が僅かに歪む。
「私は……ただ、心配して――」
「心配は不要だ。皇后は、この宮廷で最も信頼する者だ」
その一言が、場の空気を根底から変えた。
ざわめきはすぐに消え、誰もが口を閉ざす。
茶会が解散となり、廊下を並んで歩く。
「……助けてくださって、ありがとうございます」
「助ける必要などない。そなたは最初から無実だ」
「でも……」
「そなたを傷つける言葉は、余がすべて断つ」
その声音には、初めて明確な“感情”があった。
胸の奥が熱くなる。
籠姫は必ずまた仕掛けてくるだろう。
けれど、今は――背中を預けられる人がいる。
その事実が、何よりも心強かった。
夜、部屋の窓を開けると、月明かりがすみれの花を照らしていた。
私はそっと花に触れ、呟く。
「負けないわ……」
その言葉は、確かな誓いになっていた。
月下の小演奏会からわずか一週間後、宮廷の廊下には妙な噂が流れ始めていた。
――「皇后陛下が、地方貴族と密会しているらしい」。
聞くだけで荒唐無稽だとわかる話だが、囁く声には確かに悪意が宿っていた。
その日の午前、侍女ティナが青ざめた顔で駆け込んできた。
「皇后陛下……! 籠姫様が、“茶会”を開くと……招待状が」
手渡された厚紙には、流麗な筆跡で“ご出席の栄誉を”と記されている。
――籠姫エルミナの誘いは、断れば“非礼”、受ければ“罠”だ。
私は深く息をつき、静かに頷いた。
「出席するわ。……逃げても、つけ込まれるだけだから」
茶会の場は、宮廷の東翼にある“金の間”だった。
高い天井、黄金の装飾を施した壁、磨かれた床に映る光。
その中心でエルミナは白銀のドレスをまとい、まるで主役のように微笑んでいた。
「まあ、皇后陛下。お忙しい中ようこそおいでくださいました」
「お招き、感謝いたします」
形式通りの挨拶を交わすと、彼女はすぐに鋭い一手を繰り出した。
「ところで……最近、皇后陛下はとても親しくしている方がいらっしゃるとか」
場にいた貴婦人たちの視線が、一斉に私に注がれる。
「……親しく、ですか?」
「ええ。辺境伯の嫡男――名を、レオンと言いましたかしら?」
わざとらしい無邪気な笑み。
「夜の回廊で二人きりで会っているのを、見かけた者がいるそうですの」
ティナが息を呑む音が背後から聞こえた。
レオンは確かに私に忠告をくれたが、それは公務の一環だ。
「確かにお会いしましたが、それは陛下からの文を届けるためでした」
「まあ……そうでございますの? けれど、人目の少ない場所で、しかも夜に?」
周囲がざわめく。思惑通りの反応だ。
その時、背後の扉が音を立てて開いた。
「……何の話だ」
低い声。振り向けば、漆黒の髪と金の瞳が光の中に現れる。
「陛下……!」
場の空気が一瞬で張り詰めた。
カリスはゆっくりと歩み寄り、私の隣に立つ。
「皇后が誰と会おうと、それは余の許可を得ている」
「ですが……」
「エルミナ、余の名を騙るような噂を流す者は、誰であれ許さぬ」
彼の声は冷たく、刃のようだった。
エルミナの笑顔が僅かに歪む。
「私は……ただ、心配して――」
「心配は不要だ。皇后は、この宮廷で最も信頼する者だ」
その一言が、場の空気を根底から変えた。
ざわめきはすぐに消え、誰もが口を閉ざす。
茶会が解散となり、廊下を並んで歩く。
「……助けてくださって、ありがとうございます」
「助ける必要などない。そなたは最初から無実だ」
「でも……」
「そなたを傷つける言葉は、余がすべて断つ」
その声音には、初めて明確な“感情”があった。
胸の奥が熱くなる。
籠姫は必ずまた仕掛けてくるだろう。
けれど、今は――背中を預けられる人がいる。
その事実が、何よりも心強かった。
夜、部屋の窓を開けると、月明かりがすみれの花を照らしていた。
私はそっと花に触れ、呟く。
「負けないわ……」
その言葉は、確かな誓いになっていた。

