不幸を呼ぶ男 Case.2

​【国際線・機内】
​雲の上は
どこまでも静かだった
斉藤明日香は
シャンパンのグラスを傾けながら
静かに目を閉じた。

​【回想 ― 東条響(斉藤明日香)の過去】

全ては
たった一人の妹のためだった
​母子家庭で、母親は病弱
まだ学生だった妹
その学費と生活費のために
斉藤明日香は、20代前半で
夜の世界に、その身を投じた
​その類稀なる美貌と
清楚で、決して媚びない人柄
彼女は、汚れた世界の誰よりも
気高く、そして美しかった
​スナック、そしてキャバクラへ
彼女は、瞬く間にトップの座に上り詰めた
当時の総理大臣をはじめとする
日本の政財界を牛耳る男たちが
誰もが、彼女の虜になった
​だが彼女は、決して体を売らなかった
ただ、その魂の気高さだけで
男たちの心を掴んだ
​彼らは、競うように
彼女に莫大な援助を申し出た
「君の夢を、応援させてくれ」と
​その援助を元手に
彼女は、若くして、赤坂の一等地に
自分の店を開いた
​Le Labyrinthe(ラビ ラント)

そして脳裏に蘇るのは
5年前の
あの地獄のような日々の記憶

【回想 ― 5年前・赤坂】

あの世界で
私は斉藤明日香という名を捨てていた
赤坂の夜に咲く一輪の花
「東条響」
それが私の名前だった

第一段階:王様の遊び

全ての始まりは
桐生院琉星が
私の店**「Le Labyrinthe(ラビラント)」**に
初めて現れた夜だった
彼は毎晩のように来た
一人で現れ
カウンターの一番奥に座る
そして
最高級のドン・ペリニヨンを
水のように注文し続けた
彼は王様のように振る舞った
私が気に入ったものは何でも買い与えようとした
閉店後に
高級宝飾店の外商を呼びつけ
「この中から好きなものを選べ」と言った
新車のキーを
無言でテーブルに置いたこともあった
私は
その全てを
完璧な笑顔で、断り続けた
響:「お客様からのご厚意は、お気持ちだけで頂戴いたします」
私のその態度が
王様でいることに慣れきっていた
彼のプライドを
少しずつ、しかし確実に
傷つけていったのだろう

第二段階:蛇の執念

思い通りにならない私に
琉星の嫌がらせは
より陰湿なものへと変わっていった
彼は
私の店の優秀なホステスやボーイに
現在の給料の三倍の額を提示し
引き抜きを始めた
私の店の常連である政治家や経済人に
根も葉もない噂を流した
「あの店は反社と繋がりがある」
「衛生管理がずさんだ」と
母親である桐生院彩音の名前を使い
酒の卸業者や食材の仕入れ先に圧力をかけ
私との取引を停止させた
店は、日に日に孤立していった
私は、たった一人で
巨大な権力という名の
巨大な蛇に
じわじわと締め上げられていくようだった

第三段階:獣の本性

それでも私が屈しないと知ると
琉星は、ついに獣の本性を剥き出しにした
チンピラや半グレを
客として店に送り込み
わざとトラブルを起こさせ
店の評判を地に落とした
そして
運命の夜が来た
閉店後
私一人が残った店を出ると
店の前で
琉星が待ち伏せしていた
琉星:「よう」
その目は
もう笑っていなかった
琉星:「俺の女になるなら、これまでのことは全て許してやる」
琉星:「お前の店も、もっと大きくしてやってもいい」
琉星:「だが、このまま断り続けるなら」
彼は、一歩、私に近づいた
琉星:「この店も、お前の人生も、ここで完全に終わらせてやる」
それは、本物の脅迫だった
私は、後ずさる
琉星:「いい加減にしろよ、このアマが!」
琉星は
私の腕を掴むと
無理やり、彼の車の後部座席に
私を押し込もうとした
私:「やめて!」
その時だった
「―――何してる?」
静かで
どこまでも冷たい声がした
声のした方を見ると
一人の男が立っていた
黒いスーツを着た
長身の男
その男は
私の腕を掴む琉星の腕を
掴んでいた
びくともしない
鋼のような力で

それは滝沢だった

琉星:「あ?誰だてめぇ!」
琉星が怒鳴る
彼の周りにいた
金で雇われた半グレたちが
ぞろぞろと――滝沢を取り囲んだ
だが
滝沢は一切動じない
ただ、その氷のような目で
琉星を、じっと見ている
半グレの一人が
滝沢の肩を小突いた
その、瞬間
ゴッ!
鈍い音がして
男の鼻が明後日の方向に曲がった
滝沢の、肘打ちだった
もう一人が殴りかかる
滝沢はその腕を掴み
ありえない角度に捻り上げる
ゴキリ、と
骨が砕ける、乾いた音が響いた
悲鳴を上げる間もなく
滝沢はその男を盾にし
残りの半グレたちの懐に飛び込む
腹部に、掌底
顎に、手刀
急所に、的確に
無駄のない、ただ殺すためだけの動きで
屈強な男たちが
次々と、アスファルトの上に崩れ落ちていった
全ては、ほんの数秒の出来事
琉星は
その、あまりに人間離れした光景に
完全に、ビビっていた
腰が抜け、その場にへたり込んでいる
滝沢は
そんな琉星には目もくれず
私の肩に、そっと腕を回した
そして
獣を威嚇するような、低い声で言った
滝沢:「二度と、俺の女に手を出すな」
琉星は、悲鳴を上げて
転がるように、その場から逃げ去った
私は
突然の出来事に
ただ、呆然と立ち尽くしていた
滝沢は、私の肩から腕を離すと
何事もなかったかのように、その場を去ろうとする
響:「あ、あの!ありがとうございます!」
滝沢:「……たまたま、通りがかっただけだ」
滝沢:「気にするな」
滝沢は、そう言って歩き出す
その、大きな背中
響:「お待ちください!」
私は、気がつけば
彼の腕を、掴んでいた
この男を、このまま行かせてはいけない
本能が、そう叫んでいた
響:「それでは、こちらの気が済みません」
響:「一杯だけ、ご馳走させていただけませんか?」
私は、少しだけ強引に
誰もいない、自分の店「Le Labyrinthe」に
彼を招き入れた
カウンター席で
私は、彼に事情を話した
ずっと、琉星の嫌がらせに困っていたこと
響:「もし、このご恩をお返しできる時が来たら」
響:「その時は、何でも、お申し付けください」
それは、私の、心からの誓いだった
滝沢は
黙って、バーボンを飲み干した
━━━━━━━━━━━━━━
そして、連絡先を交換し

夜の闇へと、静かに消えていった。