第二章:胎動
渋谷区松濤。日本の富と権力が凝縮されたようなこの高級住宅街の一角に、桐生院彩音の城はあった。そこは邸宅というより、白い大理石で築かれた神殿と呼ぶ方がふさわしい。その神殿の中心、防音仕様のプライベートオフィスで、日本の女神は鬼の形相と化していた。
「副総監?夜分に申し訳ございません、桐生院ですのよ。ええ、ええ、お元気そうで何より。…本題に入りますわ。今、うちの息子が、あなた方のところに?…ええ、そうなの。濡れ衣ですわ。ええ、もちろん。あの子がそんなことをするはずがない。…次の選挙、覚えてらっしゃいます?あなたの派閥に、どれだけこの私が尽くしたか。…分かりますわね?ええ、ええ、賢明なご判断を」
ガチャン、と受話器を叩きつけるように置く。休む間もなく、次の番号をダイヤルする。相手は、日本のメディアを牛耳る大手広告代理店の会長だ。
「あら、会長。こんな時間に、ごめんなさいね。桐生院よ。…少し、耳に入れておきたいことがあって。うちの息子のことで、警察が少し、勘違いをなさっているようなの。万が一にも、この件が記事になるようなことがあれば…ええ、そう。来年の、御社の創立五十周年記念パーティー。私、喉の調子が悪いから、出演は難しいかしら。…あら、ご心配ありがとう。ええ、会長なら、分かってくださると思っていたわ」
脅し、すかし、過去の恩を着せ、未来の利益をちらつかせる。政界、警察上層部、法曹界、そしてメディア。彼女がこれまで築き上げてきた人脈という名の蜘蛛の巣。その全てを、たった一人の息子のために、今、手繰り寄せている。その姿は、ステージの上で愛を歌う女神のものではなく、獲物を絡めとる巨大な毒蜘蛛そのものだった。
手当たり次第に電話をかけ終えた時、彩音の額には脂汗が滲んでいた。完璧にセットされていたはずの髪が、一筋だけ乱れている。ありとあらゆるコネを使い果たした彼女は、深い疲労と共に、キングサイズのソファにドカッと体を沈めた。静寂が戻った部屋で、彼女の荒い呼吸だけが響いていた。大丈夫。琉星は、私が守る。この私がいる限り、あの子は傷一つ負わない。彼女は、そう自分に言い聞かせていた。
その頃、地球の裏側では、突き抜けるような青空が広がっていた。
赤道近くの、プライベートリゾート。エメラルドグリーンに輝く広大なプールの水面を、一人の女がまるで人魚のように滑らかに泳いでいた。長い手足が、優雅に水を掻く。やがて、彼女はプールから上がると、その雫を滴らせたまま、プールサイドのベッドに腰掛けた。
斉藤明日香。
彼女の美しさは、ありふれた言葉では表現できなかった。西洋と東洋の美が、神の気まぐれによって完璧な比率で融合した奇跡の造形。濡れた黒髪は陽光を浴びて虹色に輝き、肌は磨き上げられた象牙のように滑らかだ。何より見る者を射抜くのは、その瞳。全てを見透かすような、どこか憂いを帯びたその黒い瞳は、一度見たら誰もが忘れられない引力を持っていた。彼女が存在するだけで、その場の空気は純化され、楽園の解像度が一段階上がる。それほどの、絶対的な美貌だった。
彼女が、テーブルに置かれたトロピカルジュースに手を伸ばそうとした、その時。静寂を破って、スマートフォンの無機質な着信音が鳴り響いた。ディスプレイに表示されたのは、非通知の国際電話。
明日香は、わずかに眉をひそめながらも、その電話に出た。
「…もしもし」
相手は、日本の警察だと名乗った。そして、信じがたい言葉を続けた。妹である斉藤未香が、亡くなった、と。
「…は?」
それまで保たれていた、女神のような冷静な佇まいが、初めて音を立てて崩れた。
「どういうこと。何があったの。未香が、なんで…?」
明日香は、矢継ぎ早に警察に詰め寄る。
警察官は、言葉を選びながらも、発見された状況、そして死因に事件性があることを淡々と伝えた。そして、最後に、こう付け加えた。
「現場に一緒にいた、重要参考人の男の身柄は、すでに確保しています。男の名前は…」
その後に続いた名前に、明日香の全身の血が、一瞬で凍りついた。
『桐生院琉星』
その名前。忘れたくても、忘れられるはずのない名前。
五年前、自分を地獄の淵まで追い詰めた男。絶望の淵に立たされたあの夜、偶然にも「あの男」に助けられたことで、自分の人生から完全に追い払うことができたはずの男の名前だった。
明日香の血の気が引き、スマートフォンを握る指が白く変わる。
なぜ、あの男が。なぜ、未香と。
電話が切れると、彼女は立ち上がった。その瞳からは、先ほどまでの憂いは消え、燃えるような怒りと、氷のような決意の色が浮かんでいた。
楽園の時間は、終わった。
彼女は、すぐそばに控えていた執事に、ただ一言、短く命じた。
「日本に帰るわ。今すぐ、プライベートジェットを用意して」
渋谷区松濤。日本の富と権力が凝縮されたようなこの高級住宅街の一角に、桐生院彩音の城はあった。そこは邸宅というより、白い大理石で築かれた神殿と呼ぶ方がふさわしい。その神殿の中心、防音仕様のプライベートオフィスで、日本の女神は鬼の形相と化していた。
「副総監?夜分に申し訳ございません、桐生院ですのよ。ええ、ええ、お元気そうで何より。…本題に入りますわ。今、うちの息子が、あなた方のところに?…ええ、そうなの。濡れ衣ですわ。ええ、もちろん。あの子がそんなことをするはずがない。…次の選挙、覚えてらっしゃいます?あなたの派閥に、どれだけこの私が尽くしたか。…分かりますわね?ええ、ええ、賢明なご判断を」
ガチャン、と受話器を叩きつけるように置く。休む間もなく、次の番号をダイヤルする。相手は、日本のメディアを牛耳る大手広告代理店の会長だ。
「あら、会長。こんな時間に、ごめんなさいね。桐生院よ。…少し、耳に入れておきたいことがあって。うちの息子のことで、警察が少し、勘違いをなさっているようなの。万が一にも、この件が記事になるようなことがあれば…ええ、そう。来年の、御社の創立五十周年記念パーティー。私、喉の調子が悪いから、出演は難しいかしら。…あら、ご心配ありがとう。ええ、会長なら、分かってくださると思っていたわ」
脅し、すかし、過去の恩を着せ、未来の利益をちらつかせる。政界、警察上層部、法曹界、そしてメディア。彼女がこれまで築き上げてきた人脈という名の蜘蛛の巣。その全てを、たった一人の息子のために、今、手繰り寄せている。その姿は、ステージの上で愛を歌う女神のものではなく、獲物を絡めとる巨大な毒蜘蛛そのものだった。
手当たり次第に電話をかけ終えた時、彩音の額には脂汗が滲んでいた。完璧にセットされていたはずの髪が、一筋だけ乱れている。ありとあらゆるコネを使い果たした彼女は、深い疲労と共に、キングサイズのソファにドカッと体を沈めた。静寂が戻った部屋で、彼女の荒い呼吸だけが響いていた。大丈夫。琉星は、私が守る。この私がいる限り、あの子は傷一つ負わない。彼女は、そう自分に言い聞かせていた。
その頃、地球の裏側では、突き抜けるような青空が広がっていた。
赤道近くの、プライベートリゾート。エメラルドグリーンに輝く広大なプールの水面を、一人の女がまるで人魚のように滑らかに泳いでいた。長い手足が、優雅に水を掻く。やがて、彼女はプールから上がると、その雫を滴らせたまま、プールサイドのベッドに腰掛けた。
斉藤明日香。
彼女の美しさは、ありふれた言葉では表現できなかった。西洋と東洋の美が、神の気まぐれによって完璧な比率で融合した奇跡の造形。濡れた黒髪は陽光を浴びて虹色に輝き、肌は磨き上げられた象牙のように滑らかだ。何より見る者を射抜くのは、その瞳。全てを見透かすような、どこか憂いを帯びたその黒い瞳は、一度見たら誰もが忘れられない引力を持っていた。彼女が存在するだけで、その場の空気は純化され、楽園の解像度が一段階上がる。それほどの、絶対的な美貌だった。
彼女が、テーブルに置かれたトロピカルジュースに手を伸ばそうとした、その時。静寂を破って、スマートフォンの無機質な着信音が鳴り響いた。ディスプレイに表示されたのは、非通知の国際電話。
明日香は、わずかに眉をひそめながらも、その電話に出た。
「…もしもし」
相手は、日本の警察だと名乗った。そして、信じがたい言葉を続けた。妹である斉藤未香が、亡くなった、と。
「…は?」
それまで保たれていた、女神のような冷静な佇まいが、初めて音を立てて崩れた。
「どういうこと。何があったの。未香が、なんで…?」
明日香は、矢継ぎ早に警察に詰め寄る。
警察官は、言葉を選びながらも、発見された状況、そして死因に事件性があることを淡々と伝えた。そして、最後に、こう付け加えた。
「現場に一緒にいた、重要参考人の男の身柄は、すでに確保しています。男の名前は…」
その後に続いた名前に、明日香の全身の血が、一瞬で凍りついた。
『桐生院琉星』
その名前。忘れたくても、忘れられるはずのない名前。
五年前、自分を地獄の淵まで追い詰めた男。絶望の淵に立たされたあの夜、偶然にも「あの男」に助けられたことで、自分の人生から完全に追い払うことができたはずの男の名前だった。
明日香の血の気が引き、スマートフォンを握る指が白く変わる。
なぜ、あの男が。なぜ、未香と。
電話が切れると、彼女は立ち上がった。その瞳からは、先ほどまでの憂いは消え、燃えるような怒りと、氷のような決意の色が浮かんでいた。
楽園の時間は、終わった。
彼女は、すぐそばに控えていた執事に、ただ一言、短く命じた。
「日本に帰るわ。今すぐ、プライベートジェットを用意して」



