警視庁の無機質なコンクリートの壁に囲まれた一室。
取り調べ室の空気は、安物のパイプ椅子と、被疑者の嘘と、刑事の苛立ちが混じり合って淀んでいた。その部屋の中央で、桐生院琉星はただ俯き、肩を震わせている。
彼の正面に座る男の名は、石松(いしまつ)。警視庁捜査一課にその名を知らぬ者はいない。叩き上げで、正義感が強く、そして何より頑固。一度食らいついた獲物は、たとえ相手が誰であろうと決して離さない。その執拗さから、付いたあだ名は「石」。彼は、目の前でメソメソと泣きじゃくるこの男が、あの国民的歌手、桐生院彩音の一人息子であるという事実を、苦々しく噛み締めていた。
(母親が何とかしてくれる。俺は何も悪くない)
琉星の心の中は、その一点だけで満たされていた。だから喋らない。下手に喋ればボロが出る。泣いて、黙って、嵐が過ぎ去るのを待つ。それが、彼がこれまでの人生で学んだ唯一の処世術だった。母親という名の巨大な嵐が、目の前の些細な雨雲など吹き飛ばしてくれる。彼は、それを信じて疑わなかった。
「おい、桐生院。いつまで泣いてるつもりだ」
石松の野太い声が、狭い部屋に響く。
「昨夜、お前は斉藤未香さんと一緒にいた。彼女はお前の部屋で死んだ。死因はMDMAの過剰摂取。お前が彼女に薬を飲ませたんだろう。違うか」
返ってくるのは、嗚咽だけだ。
石松は舌打ちを一つすると、部下が淹れたぬるい茶をすすった。
「そうか。ダンマリか。お前の考えてることは分かるぜ。どうせママが助けに来てくれるとでも思ってるんだろう」
その言葉に、琉星の肩がぴくりと震えた。図星だった。
「残念だったな。今回はそうはいかねぇ」
石-松は、過去の資料を読んでいた。数年前、桐生院琉星が起こした悪質な交通事故。被害者に重傷を負わせたにも関わらず、いつの間にか示談が成立し、事件そのものが揉み消された。その裏で、桐生院彩音から警察上層部へ、そして政界へと、見えざる圧力がかかったことを石松は知っていた。多くの同僚が、長いものに巻かれろと見て見ぬふりをした。だが、石松だけは違った。彼は、法の下の平等を捻じ曲げる権力という存在を、心の底から憎んでいた。
「人が一人死んでるんだ。お前の遊びでな。今回は絶対に逃がさねぇ」
石松は立ち上がり、一方的に背を向けた琉星に言い放った。
そして、取り調べ室のドアを開け、廊下で待機していた部下に命じる。その声は、フロア全体に響き渡るほど大きかった。
「あのタワマンを根こそぎ洗え!管理会社を叩き起こして、無理やりにでも合鍵を出させろ!家宅捜索だ!」
若い刑事が、少し戸惑ったように聞き返す。
「しかし、まだ令状が…」
「うるさい!」と石松は一喝した。
「コイツが口を割らねぇ以上、物証を掴むしかねぇんだよ!俺たちの仕事は時間との勝負だ。上から『待った』がかかる前に、奴の部屋から薬の残りでも何でもいい、証拠を一つでも多く見つけ出すんだ!急げ!」
その鶴の一声で、刑事たちが一斉に動き出す。
数十分後。琉星が住むタワーマンションには、物々しい雰囲気が漂っていた。十数名の捜査員と鑑識官が、困惑する管理会社のスタッフを半ば脅すようにしてマスターキーを受け取る。そして、最上階の部屋の前に立つと、令状も何もないまま、その重厚なドアを解錠した。
ドアが開かれた先にあるのは、持ち主の逮捕も知らず、昨夜の惨劇の痕跡をそのままに残した、静かで広大な空間。
刑事たちは、その城へと、土足で踏み込んでいった。
石松の執念が、桐生院彩音の権力が動き出すよりも早く、物証を掴むための戦いの火蓋を切ったのだ。



