橘の耳元で、スマートフォンのコール音が永遠に続くかのように響いていた。一回、二回、三回。主君である桐生院彩音は、深夜の電話に出ないことなど今まで一度もなかった。この数秒の空白が、彼の心臓を万力のように締め付ける。やがて、コール音が途切れ、スピーカーの向こう側から、夜の静寂を切り裂くように、鈴を転がすような、しかし絶対零度の声が響いた。
「…橘。あなたがこの私に、こんな時間に電話をよこすということは、それ相応の覚悟があってのことでしょうね」
その声には、すでに怒りの予兆が色濃く滲んでいた。
「あ、彩音様…。申し上げます。坊ちゃまが、警察に…」
橘の声は、もはやいつもの冷静さを保ってはいなかった。
電話の向こうで、彩音の息を呑む気配が伝わる。そして、次の瞬間、女神の仮面は剥がれ落ちた。
「なんですって!?どういうことなの!流星に、あの子にもしものことがあったらあなた、どうなるか分かっているの!」
矢継ぎ早に放たれる言葉は、もはや国民的歌手の優雅さなど微塵も感じさせない、ヒステリックな絶叫に近かった。橘は、その怒声を浴びながら、必死に言葉を紡ぐ。
「落ち着いてお聞きください。坊ちゃまは、女性とご一緒でした。その女性が、急に倒れ…亡くなられました。そして、その…警察の判断では、死因は麻薬によるものだと…」
橘が言い終わる前に、彩音の甲高い声がそれを遮った。
「麻薬ですって!?馬鹿なことを言わないで!あの子が、この私の琉星が、そんな汚らわしいものに手を出すわけがないでしょう!その女よ!どこの馬の骨とも知れないその女が、琉星を陥れるために仕組んだ罠に決まっているわ!あの子は被害者なのよ!」
それは、母親が息子を庇うというレベルを遥かに超えた、狂信的なまでの現実逃避だった。彼女の世界では、桐生院琉星は一点の曇りもない完璧な存在でなければならない。いかなる失敗も、過ちも、全ては彼の完璧さを妬む外部からの攻撃なのだ。
「あなたの監督不行き届きが招いた結果よ、橘!なぜあの子を一人にしたの!なぜ、あんな下等な女と会うことを止められなかったの!」
「申し訳…ございません…」
橘が絞り出せるのは、その一言だけだった。彩音の怒りは、数秒の沈黙の後、今度は恐ろしく冷たい光を帯びた。
「…もういいわ。言い訳は聞き飽きた。幸い、まだマスコミには漏れていないようね」
彼女の声は、先ほどまでの激情が嘘のように、冷徹な支配者のそれへと戻っていた。
「警察庁の長官には、明日の朝一番で私から直々に電話を入れます。官房長官にも、前の選挙で大きな貸しがある。あの子が不当な扱いを受けないよう、上から圧力をかけてもらうわ。あなたは、すぐに最高の弁護団を組織しなさい。そして、琉星に罪をなすりつけたその女の身元を徹底的に洗うのよ。男関係、金の流れ、薬物の入手ルート。何でもいいわ、あの子を陥れた悪女だという証拠を作り上げなさい」
それは、もはや真実を追求する者の言葉ではなかった。自らの望む「物語」を、権力という筆で、現実世界に上書きしようとする創造主の宣言だった。
「橘」
彩音は、最後通告のように、彼の名を呼んだ。
「今すぐ、私のところへ来なさい。状況を、一から十まで全て報告するのよ。一分、いいえ、一秒でも遅れたら許さないわ」
ブツリ、と一方的に電話は切れた。
橘は、通話の終了したスマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。背中には、滝のような冷や汗が流れている。琉星が逮捕されたことへの恐怖ではない。これから対峙しなければならない、絶対的な女王、桐生院彩音という存在そのものへの、本能的な恐怖だった。
彼は我に返ると、踵を返し、病院の出口へと走り出した。彼の主君が待つ、渋谷区松濤の静かな邸宅という名の城塞へ。そこは、日本の全てのルールが、ただ一人の女神の気まぐれによってねじ曲げられる場所だった。