冷たい無影灯が照らし出す手術室内は、金属音と電子音、そして荒い呼吸だけが支配する戦場だった。
「ボスミン1ミリ、静注!」
「先生、心拍戻りません!」
医師たちの懸命な処置も虚しく、斉藤未香の心電図モニターに映る波形は、ついに生命活動の停止を示す一本の冷たい直線へと変わった。あらゆる蘇生措置が尽くされ、諦観を含んだ沈黙が手術室を包み込む。執刀医が、その額に滲んだ汗を手の甲で拭い、静かに死亡時刻を告げた。
まだ26歳という若すぎる命が、今、この世から完全に消え去った。一人の下衆な男の、身勝手で汚れた欲望のために。
だが、執刀医のベテランの目は、この死に奇妙な違和感を覚えていた。急性心不全。救急隊からの報告はそうだった。しかし、彼女の異常に収縮した瞳孔、そして蘇生中に見られた特異な不整脈。それは、単なる突然死の兆候とは明らかに異なっていた。彼は看護師に指示を出し、緊急の薬物反応検査を進めさせていた。やがて、一枚の検査結果リポートが彼の手元に届く。そこに記された文字を見て、彼の疑念は怒りへと変わった。
高濃度のアンフェタミン系薬物。MDMA。
これは事故死などではない。明確な薬物中毒による死亡だ。
「…鈴木君」
執刀医は、傍らにいた若い補佐の医師に、氷のように冷たい声で命じた。
「あの『手術中』のランプ、絶対に消すな。そして、すぐに所轄の警察に連絡を入れろ。急性薬物中毒による死亡の可能性、事件性あり、と。ご遺族より先に、奴らを呼ぶんだ」
その声には、人の命を弄んだ見えざる犯人に対する、医師としての静かな、しかし燃えるような怒りが込められていた。赤いランプは、真実が暴かれるまで、関係者たちをその場に縛り付けるための罠となった。
病院の長い廊下では、桐生院琉星が苛立ちと安堵の入り混じった表情で、まだ赤く光り続けるランプを眺めていた。遅い。なぜまだ終わらない。だが、時間がかかっているということは、まだ生きているのかもしれない。そうすれば、ただの体調不良で話が済む。隣に立つマネージャーの橘は、すでに腕利きの弁護士と連絡を取り、病院側への対応について打ち合わせを始めていた。桐生院彩音の権力という名の巨大な傘の下で、全ては完璧にコントロールされているはずだった。
その、絶対的な自信に満ちた空気を切り裂いたのは、複数の硬い革靴の音だった。
現れたのは、刑事と名乗る三人の男たち。彼らは、同情や配慮など微塵も感じさせない、仕事の顔をしていた。
「桐生院琉星さんですね」
代表の刑事が、まっすぐに琉星の目を見て言った。
「たった今、医師より連絡がありました。斉藤未香さんの死因は、合成麻薬の急性中毒によるものと断定されました。あなたが、亡くなる直前まで一緒にいたと聞いていますが」
その言葉は、静かな爆弾だった。
「麻薬だと…!?」
最初に反応したのは橘だった。彼の冷静な仮面が初めて崩れ落ち、驚愕と、そして隣に立つ琉星への怒りに満ちた視線を送った。そんな話は聞いていない。坊っちゃまは、この期に及んで私にさえ嘘をついていたというのか。その驚きは、あまりにも自然で、誰の目にも演技には見えなかった。
一方の琉星は、完全に思考が停止していた。麻薬。バレないと、心のどこかで高を括っていた最大の秘密。それが、いとも簡単に暴かれてしまった。母親の権力も、橘の用意周到さも、この絶対的な証拠の前には無力だった。彼は子供のように狼狽え、ただ首を横に振ることしかできない。
「あ…、い、いや…俺は…」
刑事は、そんな琉星の姿を冷たく見下ろし、事務的な口調で告げた。
「詳しい話を、署の方で聞かせてもらいます。ご同行願います」
二人の刑事が、琉星の両脇を固める。抵抗する力も、意思も、彼には残っていなかった。彼はまるで夢遊病者のように、なされるがままに警察官たちに連行されていった。
あっという間に、廊下には橘だけが一人取り残された。
ちょうどその時、彼の頭上で光り続けていた「手術中」の赤いランプが、ふっと音もなく消えた。まるで、一つのショーの終わりを告げるかのように。
橘の額を、冷たい汗が伝った。
坊っちゃまの嘘。最悪の事態。これは、いつもの不祥事の揉み消しとは次元が違う。桐生院彩音という女神の名に、取り返しのつかない傷がつくかもしれない。
彼は震える手でスマートフォンを取り出し、電話帳の中からただ一人の、絶対的な主君の名を探し出した。



