【都内・タワーマンション】

誰からも着信を拒否されたスマートフォンが、桐生院琉星の手の中で冷たい鉄の塊と化していた。絶対的だったはずの王様からの命令を、誰一人として聞かない。初めて経験する完全な拒絶は、彼の思考を鈍らせ、ただただパニックの渦の中へと沈めていく。静寂を取り戻した豪華な部屋の真ん中で、横たわる未香の亡骸だけが、動かせない現実として横たわっていた。
その時だった。暗闇の中で一筋の光が差し込むように、琉星の脳裏にある考えが閃いた。それはもはや閃きというより、赤子が母親を求めるような、ほとんど本能に近い最終手段だった。
母親、桐生院玲香。その名を直接呼ぶのではない。彼女が最も信頼し、桐生院家のあらゆる「影」を処理してきた男。母親の忠実なるマネージャー、橘(たちばな)だ。
琉星は震える指で電話をかけた。数回のコールの後、感情の読めない落ち着いた声が鼓膜を揺らす。
「坊ちゃま、このような時間にどうされました」
「橘さん…た、助けてくれ…!」
琉星の声は上ずり、言葉は途切れ途切れだった。彼は今しがた起きた出来事を、必死に、だが核心を一つだけ隠して説明した。女と酒を飲んでいたこと。彼女が突然倒れたこと。そして、息をしていないこと。合成麻薬MDMAの存在。そのあまりにも決定的な事実は、彼の口からどうしても出てこなかった。それは母親にさえ見せたことのない、彼自身の弱さと後ろめたさがそうさせた最後の見栄だったのかもしれない。
電話の向こうで橘は黙って聞いていた。そして、琉星が全てを話し終えると、彼は少しも動揺しない声で、しかし有無を言わさぬ力強さで言った。
「落ち着きなさい、坊ちゃま。まず、すぐに救急車を呼びなさい。いいですか、今すぐにです。あなたはただの、運悪く事故に居合わせた第一発見者になるのです。何も心配いりません。私が全て手配します」
その言葉は、荒れ狂う嵐の中で見つけた灯台の光だった。琉星は操られるように頷き、電話を切るとすぐに119番へ通報した。


桐生院琉星の母親、桐生院彩音。
その名を知らぬ者は、この日本にはいないだろう。彼女は、昭和、平成、そして令和と、三つの時代を超えてトップに君臨し続ける国民的歌手。「日本の歌姫」や「永遠の女神」といったありきたりな称号ではもはや表現しきれない、一個の巨大な文化的アイコンだった。
そのキャリアは10代での鮮烈なデビューから始まり、彼女の透き通るような歌声は、時に恋の喜びを歌い、時に時代の哀しみに寄り添い、常に人々の心の中心にあった。メディアの前で見せる姿は、常に完璧だった。優雅な物腰、知性に富んだ会話、そして息子である琉星を深く愛する、慈愛に満ちた母親の顔。世間は彼女を、美貌と才能、そして母性を兼ね備えた、地上に舞い降りた女神そのものだと信じて疑わなかった。
だが、その聖母のようなパブリックイメージの裏で、彼女は冷徹なまでの支配者だった。桐生院彩音という完璧な作品を汚すものは、たとえ何であれ許さない。彼女の美学は、ステージの上だけでなく、自らの人生の全てに及んでいた。そして、その美学の最高傑作こそが、一人息子の桐生院琉星だった。彼女にとって琉星は、息子である以前に、自らがプロデュースする最高の作品。彼に貼られた「国民的歌手の息子」というレッテルが、少しでも傷つくことを彼女は極度に恐れた。琉星が起こす些細な暴力事件、交通トラブル、女遊びの不祥事。その全ては、橘を通じて金と、そして彼女が長年かけて築き上げた芸能界や政財界への影響力という名の権力で、報道される前に握り潰されてきた。琉星の万能感は、母親である彩音が作り上げた、巨大な虚像の影で育まれたものだった。


やがて、遠くから聞こえてきたサイレンの音が急速に大きくなり、現実へと引き戻される。救急隊員たちが手際良く部屋へとなだれ込み、床に横たわる未香に駆け寄った。琉星はただ壁際に立ち尽くし、その光景を呆然と眺めていた。彼はストレッチャーに乗せられる未香と共に救急車に乗り込む。その扉が閉まる直前、一台の黒いセダンがマンションの前に滑り込んできた。車から降りてきた橘が、救急隊員に冷静な声で搬送先の病院を尋ねているのが見えた。
病院の長い廊下は、消毒液の匂いが満ちていた。
手術中と赤く光る電光掲示板の文字が、無機質に点灯している。その光が、琉星の顔を不気味に照らし出していた。一秒が、一時間にも感じられるとてつもなく長く感じる時間。だが、彼の心にあったのは未香の身を案じる気持ちではなかった。どうすれば、この事実から逃げられるか。どうすれば、自分は傷つかずに済むのか。あの女が勝手に死んだのだ。俺は悪くない。そうだ、俺は悪くない。
母親がなんとかしてくれる。いつものように。
琉星は、祈るように、ただそのことだけを考えていた。