不幸を呼ぶ男 Case.2


第一章:堕ちた星



獣の咆哮にも似たエンジン音がコンクリートの壁に反響しやがて静寂へと溶けていく。鈍色の光を放つランボルギーニが滑り込んだのは、天空に突き刺さるタワーマンションの地下駐車場だった。都心にいくつも存在する高級集合住宅の中でも、ここは別格の城として知られている。選ばれた者だけが住まうことを許される、現代のバベルの塔。
助手席のドアが静かに開き、斉藤未香はその豪奢なシートから降り立った。見渡す限り高級外車が並ぶ無機質な空間は、彼女が住むアパートの周辺とは何もかもが違っていた。きらびやかな夜のドライブの終着点は、彼女の自宅近くのはずだった。
「話が違うじゃない」
未香は、車のボンネットに軽く寄りかかった琉星に向き直り、硬い声で言った。
「私の家の近くまで送ってくれるって、約束だったでしょ」
彼女は今日初めて会った桐生院琉星という男に「何もしないこと」そして「自宅の近くまで送ること」を条件に、このドライブを許可したのだ。それなのに、なぜ彼の自宅としか思えない場所へ連れて来られたのか。その整った顔立ちはどこか見覚えのある気品を漂わせていたが、今は困惑と明確な警戒心がその瞳に浮かんでいた。
「ごめんごめん、でも約束は守るよ。ちゃんと君を家まで送る」
琉星は悪びれる様子もなく笑う。その笑顔は不思議なほど人懐こく、相手の警戒心を麻痺させる力があった。
「ただ、その前にどうしても君に見せたい景色があったんだ。この最上階から見える夜景は、東京で一番美しい星空なんだよ。それを見ながら少しだけ話して、すぐに送っていく。本当だから」
琉星の言葉は甘い蜜のように未香の耳に染みていく。彼女は保育士として働きながら夜はティックトックでライブ配信をしていた。そこで見つけたのだと琉星は言った。画面越しの何万人という視聴者の一人だった彼が、ありとあらゆる手段を使って彼女に接触し、その猛烈なアプローチの末に今日のデートが実現した。彼の背景にあるものは何も知らない。ただ、この圧倒的なまでの非日常感に抗いがたい魅力を感じていたのも事実だった。
「…本当に、少しだけよ」
未香のその言葉を合図に、二人は居住者専用のエレベーターへと乗り込んだ。
最上階の部屋の扉が開いた瞬間、未香は息を呑んだ。壁一面のガラス窓の向こうには、現実感を失うほどの光の海が広がっていた。地上に堕ちた無数の星々。幾千幾万の営みがまたたくこの巨大な街が、まるで彼のためだけに用意されたジオラマのように眼下に広がっている。
琉星はそんな彼女の反応に満足し、バーカウンターで手際良くカクテルを作り始めた。シェイカーを振る軽やかな音。彼女が窓の外の景色に心を奪われている、その一瞬の隙。彼はポケットから小さなビニール袋を取り出した。中身は裏ルートで手に入れた高純度の合成麻薬、MDMAの粉末。琉星にとってこれは、淑女の理性を溶かし、抵抗という概念を消し去るための「魔法の粉」だった。多幸感をもたらし、相手への親近感を増大させ、そして性的興奮を高める媚薬。彼はいつもより少し多めの量を、片方のグラスに躊躇なく滑り込ませた。白い粉は淡いブルーのカクテルの中に跡形もなく消えていった。
「さあ、東京で一番の星に乾杯しよう」
差し出されたグラスを未香は素直に受け取った。琉星のスマートな振る舞いは彼女の警戒心を少しずつ解かしていた。乾杯のグラスの音が高く響く。
「君の配信はいつも見てるよ。子供たちの話をしている時の君は本当に素敵だ」
「ありがとう…」
「大変な仕事だろう。でも、君みたいな先生がいたら子供たちは幸せだね。俺は君みたいな素敵な女性を見つけられて幸運だよ」
お世辞だと分かっていても悪い気はしない。流れるような会話の中で、未香はカクテルを一口、また一口と喉に流し込んでいった。
しばらく話した頃だろうか。未香はふいに自分の体が内側から燃えるように熱くなっているのを感じた。心臓の鼓動が速い。息が少しずつ上がっていくのが自分でも分かった。
「どうしたの?」
「ううん、なんだか…体が熱くって…」
その言葉を聞いた瞬間、琉星の顔から優雅な微笑みがすっと消え失せ、代わりに下卑た欲望に満ちた表情が浮かび上がった。口の端が歪み、獲物を前にした獣の目が彼女を捉える。MDMAが効いてきた。魔法の粉が、彼女の固い蕾を内側からこじ開けようとしている。やがて羞恥心は消え去り、体が快楽を求め、従順な人形のように自分に身を委ねてくるだろう。その瞬間を想像し、彼は背筋が粟立つのを感じた。
だが、未香の様子は彼の汚れた期待を裏切り、急激に変化した。
「はっ…ぁ…っ、ひゅっ…くる、し…」
息が荒くなるどころではない。喉の奥から空気が漏れるような異様な音を立て、彼女は喘ぎ始めた。その美しい瞳は見開かれ、焦点が合っていない。体が小刻みに痙攣し、まるで操り人形の糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちた。
「お、おい…?未香?」
予想外の展開に、さすがの琉星も狼狽えた。これはMDMAがもたらすはずの恍惚とした表情ではない。入れすぎたのか?それとも、粗悪品だったのか?甘美で背徳的な時間へと続くはずだった彼の脚本が、目の前でズタズタに引き裂かれていく。床に倒れ、激しく痙攣する未香の姿に、彼の頭は真っ白になる。やがて、その痙攣がぴたりと止まった。
静寂。
琉星はおそるおそる彼女のそばに膝をつき、その胸に耳を当てた。何も聞こえない。心臓の音が、聞こえない。
死んだ。
その事実が、彼の思考を鈍い金槌で殴りつけた。楽しいはずの遊びが、取り返しのつかない現実になった。しかし、彼の心を支配したのは悲しみや罪悪感ではなかった。ただ一点、どうすればこの事態から逃れられるかという自己保身だけだった。
琉-星は震える手でスマートフォンを取り出し、電話をかけ始めた。揉み消しに慣れた人間、金で動く人間、彼の不祥事をこれまで何度も処理してきた裏の人間たちへ。だが、返ってくる答えは同じだった。金の要求、脅迫、そして最後には拒絶。殺人の身代わりになるほど安い人間など、この東京のどこにも存在しなかった。
誰の助けも得られない。初めて直面する完全なる孤立。
琉星は、静かに横たわる美しい亡骸と、眼下に広がる無関心な東京の夜景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。