大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

午後のフロアは、午前中よりも静かだった。

噂は一巡し、皆それぞれの仕事に戻ったふりをしている。

嵩は資料を確認しながらも、朱里の背中が視界に入るたび、思考が引き戻されていた。

(……巻き込んでる)

転勤。

選択。

自分の決断が、彼女の立ち位置まで揺らしている。

「平田」

低く、はっきりした声。

顔を上げると、美鈴が立っていた。

「今、五分いい?」

業務連絡の顔だった。

断る理由はない。


◆給湯室

人のいない給湯室は、思った以上に静かだった。

コーヒーマシンの音だけが、やけに大きい。

美鈴はカップを置くと、嵩を見ずに言った。

「噂、想定内?」

「……ああ」

「遅かれ早かれ、とは思ってた」

「そう」

それだけ言って、少し間を置く。

「朱里、何も言ってないでしょ」

疑問ではなく、確認だった。

「……言ってない」
「それ、助かってる」

嵩は、意外そうに美鈴を見る。

「庇ってるわけじゃない」
「自分の場所を守ってるだけ」

一拍。

「で、本題」

美鈴は、ようやく嵩の方を向いた。

「朱里はね」
「“決めない”って決めてる」

胸に、静かに刺さる。

「それを、優柔不断だと思う?」

嵩は、首を横に振った。

「……思わない」
「むしろ、誠実だ」

「正解」

美鈴は、少しだけ笑った。

「だから」

声が、少し低くなる。

「君が“行くかどうか”を決めるのは自由」
「でも──」

一歩、距離を詰める。

「朱里の未来まで、君が決める権利はない」

言葉は穏やかだった。

でも、逃げ場がなかった。

嵩は、ゆっくり息を吐く。

「……分かってるつもりだった」
「つもり、ね」

美鈴はカップを手に取る。

「優しさって、たまに独りよがりになる」 「朱里は“待ってる”んじゃない」
「“立ってる”の」

沈黙が落ちる。

「転勤を選ぶなら、選べばいい」
「残るなら、それもいい」

そして、最後に。

「でも」
「朱里に選ばせないまま進むのは、違う」

その一言で、嵩の中で何かが定まった。

「……ありがとう」
「ちゃんと、向き合う」

美鈴は、ドアに手をかけながら言った。

「それができる人だと思ってるから」
「今、話した」

去り際、振り返らずに付け加える。

「あと」
「朱里、ちゃんと強いから」

給湯室に、一人残される。

嵩は、自分の手を見つめた。

握りしめていたものは、

“決断”じゃない。

“渡す覚悟”だった。