大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

瑠奈の一言が去ったあとも、フロアの空気は元に戻らなかった。

誰もが“聞いてしまったもの”を胸の奥にしまい

直すように、キーボードを叩く音だけが不自然に大きく響いている。

朱里は、画面を見つめたまま、指を動かしていた。

数字も文言も、頭には入ってこない。

それでも手だけは、いつも通りに動いてしまう。

──転勤。

はっきりした言葉は、まだ誰からも聞いていない。

けれど、嵩の背中が、今日はやけに遠く見えた。

昼過ぎ、コピー機の前で、朱里は美鈴と並んだ。

用紙をセットする手が、わずかに震えているのを、美鈴は見逃さなかった。

「……朱里」

名前を呼ばれて、朱里は小さく肩をすくめる。

「大丈夫です。仕事、溜まってるだけで」

美鈴は、それ以上踏み込まなかった。

今の朱里には、“優しさ”より“余白”が必要だと分かっていたから。

コピー機が低い音を立てて動く。

その間、朱里はぽつりと呟いた。

「聞いたら、何かが終わる気がして」

美鈴は、紙を受け取りながら、静かに答えた。

「聞かなきゃ、始まらないこともある」

朱里は、何も返さなかった。

ただ、コピー用紙を胸に抱え、深く息を吸った。

夕方。

嵩は、何度目か分からないため息をつき、スマートフォンを手に取った。

朱里にメッセージを送る文面は、打っては消し、消しては打ち直す。

──今夜、少し話せる?

それだけの一文が、どうしてこんなにも重い。

送信ボタンを押す直前、視界の端で朱里が立ち
上がるのが見えた。

バッグを手に、誰よりも早く帰り支度をしている。

「朱里」

思わず、声が出た。

振り返った彼女は、いつもの朱里だった。

笑顔も、声の調子も。

ただ、目の奥だけが、静かに揺れている。

「お先に失礼します」

それだけ言って、彼女はフロアを出ていった。

嵩は、その背中を追わなかった。

追えなかった。

“言う”と決めたはずなのに。

“今日”だと、心のどこかで思っていたはずなのに。

夜、部屋に戻った朱里は、灯りをつけずにソファに座った。

カーテン越しの街の光が、ぼんやりと部屋を照らす。

スマートフォンは、静かなままだ。

朱里は膝の上で手を組み、そっと目を閉じた。

──明日でもいい。
──でも、もう、逃げない。

そう心の中で決めた瞬間、胸の奥に、覚悟が静かに降りてきた。

言葉になる前の距離は、もう、限界だった。