あの夜から一週間後、私はまたしても高級ホテルのエントランスに立っていた。
 真壁亮介から届いた招待状は、外交関係者と財界人が集まる大規模なレセプションへのものだった。
 「外交官としてではなく、一人の男として」――あの言葉が、胸の奥で何度も反芻されている。

 エスカレーターを上がると、すでに会場は人で埋め尽くされていた。
 男たちは黒のタキシード、女性たちは色鮮やかなイブニングドレスに身を包み、グラス片手に談笑している。
 場の華やかさに飲まれないよう、私は深呼吸をしてから歩き出した。

 「来てくれて嬉しい」
 低く柔らかな声が耳元で囁かれ、思わず振り返る。
 そこにいたのは、漆黒のタキシードに身を包んだ真壁だった。
 ネクタイではなく、蝶ネクタイ。お見合いの時よりもフォーマルで、そしてどこか柔らかい雰囲気をまとっている。

 「……お招きいただきありがとうございます」
 「せっかくの夜です。まずは一杯どうですか」
 差し出されたシャンパングラスを受け取り、軽く乾杯する。
 彼の目は微笑んでいるのに、やはり奥までは読めない。

 「こういう場には、よく?」
 「仕事柄、しょっちゅうです。外交官は人前で笑うのも仕事のうちですから」
 「じゃあ、その笑顔もお仕事の一部なんですね」
 「半分は。……残りの半分は、あなたに向けて」
 ――さらりと、こういうことを言うから困る。
 言葉の裏にどれほど本気があるのか測れないのに、心臓だけが勝手に反応してしまう。

 

 彼にエスコートされ、要人たちとの挨拶をいくつかこなした。
 その間も真壁は常に私の隣にいて、誰かが近づけばさりげなく会話をリードし、私が戸惑わないように場を整えてくれる。
 冷たいと思っていた彼が、こうして盾のように振る舞う姿は意外だった。

 「藤崎さんは、人前でも物怖じしないですね」
 「そう見えるなら、演技成功です」
 「演技……?」
 「社長令嬢っていう肩書きがあるだけで、勝手に強い人だと思われますから。でも実際は――」
 そこまで言って、ふと口をつぐむ。
 彼の視線が、静かに続きを促していた。
 「……実際は、早く帰って一人になりたいって思ってます」
 私の本音に、真壁はふっと笑った。
 「奇遇ですね。僕もそう思ってました」

 

 中盤、会場の中央でスピーチが始まった。
 私と真壁は少し離れたテーブルに腰を下ろす。
 そこで、年配の政治家風の男性が近づいてきた。
 「真壁君、こちらが噂の……」
 「藤崎美桜です。父にはお世話になっております」
 笑顔で挨拶を交わすと、その男性は意味ありげに私を見やり、真壁に向かってこう言った。
 「お見合いはうまくいったのかね?」

 空気が一瞬だけ張り詰めた。
 私が返事に迷っていると、真壁は平然とこう答えた。
 「ええ。彼女とは、これから少しずつ関係を深めていくつもりです」
 その言葉は、まるで既成事実を作るように落ち着いていて、抗う余地を与えない。

 男性が去ったあと、私は思わず問い詰めた。
 「……どういうつもりですか」
 「ここでは、そう答えるのが得策です」
 「得策って……外交官は、プライベートも駆け引きなんですね」
 「ええ。けれど、これは僕の本音でもあります」
 その目を見ても、やはり真意は読み取れない。
 だけど、胸の奥で何かが小さくざわめいた。

 

 終盤、会場の照明が落ち、軽やかな音楽が流れ始めた。
 周囲ではカップルや招待客たちがペアになり、ゆったりとしたダンスが始まる。
 「踊りませんか」
 差し出された手を、私はほんの数秒ためらってから取った。

 真壁の手は温かく、背に回された掌からわずかな力が伝わる。
 ステップはゆっくりで、ほとんど移動していないのに、妙に距離が近い。
 「……距離、近くないですか」
 「これくらいが、僕は好きです」
 さらりと言われ、視線を逸らす。
 心臓の鼓動が、音楽よりも大きく響いている気がした。

 曲が終わる頃、彼が低く囁いた。
 「藤崎さん。あなたのことを、もっと知りたい」
 顔を上げると、初めて見るような柔らかな光がその瞳に宿っていた。
 それが本物なのか、外交官の仮面の一部なのか――私はまだ判断できなかった。