あのお見合いから、ちょうど二週間が経っていた。
真壁亮介――あの冷たい外交官のことは、できれば記憶から消してしまいたかった。
けれど妙なもので、人間の記憶は「嫌だ」と思うことほど、鮮やかに残るらしい。
彼の切れ長の目、抑えた低音、そしてあの人を試すような笑い方。ふとした瞬間に頭をよぎる。
「美桜、そろそろ出るわよ」
母の声に我に返る。
今日は父の代理で、取引先主催のパーティーに出席することになっていた。
形式的なスピーチと名刺交換、それから退屈な社交辞令――そう思っていた。
まさか、そこに彼がいるなんて夢にも思わずに。
会場は都心の一流ホテル、シャンデリアが煌めく大広間だった。
白いテーブルクロスの上に並べられたグラスとオードブル。
壁際には観葉植物と、控えめな生演奏のジャズ。
完璧に整った空間は、いかにも「この場にいる自分の価値」を示すための舞台装置だ。
母と並んで挨拶回りをしていると、背後から落ち着いた声が響いた。
「お久しぶりですね、藤崎さん」
振り返った瞬間、息が止まった。
紺のスーツに身を包んだ真壁亮介が、グラスを片手に立っていた。
お見合いの時と同じように、整った顔には淡い笑みが浮かんでいる。
けれど、その目の奥の温度は相変わらず読めない。
「……これは驚きました。外交官も、こういう場に出席されるんですね」
「ええ。立場上、各界との繋がりは大事ですから」
会話は礼儀正しく、それでいて間合いを詰めてくる。
――やっぱり、この人は相手の反応を見て楽しむタイプだ。
母は気を利かせたのか、「ちょっと挨拶に」と言って離れていった。
気づけば、広い会場の片隅で二人きり。
「藤崎さん、あのお見合い以来ですね」
「ええ。お互い結婚に乗り気じゃないという点では、話は早かったと思いますけど」
「そうでしたね。ただ……」
彼はワイングラスを軽く揺らしながら、私をじっと見つめる。
「正直、あの場で終わらせるのはもったいないと思いました」
「……どういう意味ですか?」
「外交官として、多くの人と話しますが、あそこまで歯に衣着せぬ女性は珍しい。興味が湧きます」
彼の言葉は褒め言葉にも聞こえるが、どこか試されている気がして落ち着かない。
パーティーが進み、私は少し離れた場所で軽食を取っていた。
そこへ、ひとりの外国人男性が近づいてくる。金髪碧眼で、年の頃は四十代前半だろうか。
「ミス・フジサキ? お噂はかねがね。ビジネスでお父上とお会いしてね」
彼は流暢な英語で話しかけてきた。
私も留学経験があるので、すぐに応じる。
すると、その会話に割って入るように、真壁が現れた。
「彼女は今、私と話をしているところです」
低く通る声。
「おっと、そうだったか。ではまた後ほど」
外国人男性は笑って去っていったが、私は思わず真壁を睨んだ。
「何をしてるんですか」
「あなたが外国人に声をかけられているのを見たら、放っておけません」
「放っておいてください」
「それはできません。……心配しますから」
予想外の言葉に、一瞬だけ言葉が詰まる。
――心配? この人が?
彼は何事もなかったように笑みを浮かべ、話題を変えた。
「来週、あるレセプションがあるのですが、ご一緒しませんか」
「お誘いですか?」
「ええ、外交官としてではなく、一人の男として」
その言葉の真意を探ろうとしたが、彼の瞳はやはり何も明かさない。
パーティーの終わり、私が会場を出ようとしたとき、背後から声がかかった。
「藤崎さん」
振り向くと、真壁が立っていた。
「今日のドレス、とても似合っていました」
その一言は、あまりに唐突で、そして妙に温かかった。
返事をする前に、彼は軽く会釈し、背を向けた。
残された私は、胸の奥に小さなざわめきを抱えたまま、その背中を見送った
真壁亮介――あの冷たい外交官のことは、できれば記憶から消してしまいたかった。
けれど妙なもので、人間の記憶は「嫌だ」と思うことほど、鮮やかに残るらしい。
彼の切れ長の目、抑えた低音、そしてあの人を試すような笑い方。ふとした瞬間に頭をよぎる。
「美桜、そろそろ出るわよ」
母の声に我に返る。
今日は父の代理で、取引先主催のパーティーに出席することになっていた。
形式的なスピーチと名刺交換、それから退屈な社交辞令――そう思っていた。
まさか、そこに彼がいるなんて夢にも思わずに。
会場は都心の一流ホテル、シャンデリアが煌めく大広間だった。
白いテーブルクロスの上に並べられたグラスとオードブル。
壁際には観葉植物と、控えめな生演奏のジャズ。
完璧に整った空間は、いかにも「この場にいる自分の価値」を示すための舞台装置だ。
母と並んで挨拶回りをしていると、背後から落ち着いた声が響いた。
「お久しぶりですね、藤崎さん」
振り返った瞬間、息が止まった。
紺のスーツに身を包んだ真壁亮介が、グラスを片手に立っていた。
お見合いの時と同じように、整った顔には淡い笑みが浮かんでいる。
けれど、その目の奥の温度は相変わらず読めない。
「……これは驚きました。外交官も、こういう場に出席されるんですね」
「ええ。立場上、各界との繋がりは大事ですから」
会話は礼儀正しく、それでいて間合いを詰めてくる。
――やっぱり、この人は相手の反応を見て楽しむタイプだ。
母は気を利かせたのか、「ちょっと挨拶に」と言って離れていった。
気づけば、広い会場の片隅で二人きり。
「藤崎さん、あのお見合い以来ですね」
「ええ。お互い結婚に乗り気じゃないという点では、話は早かったと思いますけど」
「そうでしたね。ただ……」
彼はワイングラスを軽く揺らしながら、私をじっと見つめる。
「正直、あの場で終わらせるのはもったいないと思いました」
「……どういう意味ですか?」
「外交官として、多くの人と話しますが、あそこまで歯に衣着せぬ女性は珍しい。興味が湧きます」
彼の言葉は褒め言葉にも聞こえるが、どこか試されている気がして落ち着かない。
パーティーが進み、私は少し離れた場所で軽食を取っていた。
そこへ、ひとりの外国人男性が近づいてくる。金髪碧眼で、年の頃は四十代前半だろうか。
「ミス・フジサキ? お噂はかねがね。ビジネスでお父上とお会いしてね」
彼は流暢な英語で話しかけてきた。
私も留学経験があるので、すぐに応じる。
すると、その会話に割って入るように、真壁が現れた。
「彼女は今、私と話をしているところです」
低く通る声。
「おっと、そうだったか。ではまた後ほど」
外国人男性は笑って去っていったが、私は思わず真壁を睨んだ。
「何をしてるんですか」
「あなたが外国人に声をかけられているのを見たら、放っておけません」
「放っておいてください」
「それはできません。……心配しますから」
予想外の言葉に、一瞬だけ言葉が詰まる。
――心配? この人が?
彼は何事もなかったように笑みを浮かべ、話題を変えた。
「来週、あるレセプションがあるのですが、ご一緒しませんか」
「お誘いですか?」
「ええ、外交官としてではなく、一人の男として」
その言葉の真意を探ろうとしたが、彼の瞳はやはり何も明かさない。
パーティーの終わり、私が会場を出ようとしたとき、背後から声がかかった。
「藤崎さん」
振り向くと、真壁が立っていた。
「今日のドレス、とても似合っていました」
その一言は、あまりに唐突で、そして妙に温かかった。
返事をする前に、彼は軽く会釈し、背を向けた。
残された私は、胸の奥に小さなざわめきを抱えたまま、その背中を見送った

