土曜の午前、ホテルの最上階ラウンジは、柔らかなピアノの旋律に包まれていた。
 窓一面に広がる青空と、遠くに霞む湾岸の景色。その真ん中で、私は無意識に背筋を伸ばしていた。

 「美桜、あまり緊張しないでね」
 向かいに座る母が、紅茶のカップを手に微笑む。
 ――無理に決まっている。

 なにしろ今日の相手は、父が「これ以上ない縁談だ」と太鼓判を押した相手。
 エリート中のエリート、外務省の花形部署に所属する外交官。しかも三十二歳にして次期局長候補の呼び声も高いという。
 スペックだけ見れば、女性陣の羨望を一身に浴びるはずの人物だ。

 だが、私は最初からこの話を受け入れる気などなかった。
 政略結婚なんて時代錯誤もいいところだし、父の「会社のため」なんて言い訳も耳にたこができるほど聞いた。
 愛のない結婚をするくらいなら、独りでいたほうがマシだ。

 「……そろそろ来るはずだ」
 母の視線の先、ラウンジの入口から背の高い男性が歩いてくる。
 紺のスーツに身を包み、淡いグレーのネクタイがきちんと結ばれている。歩き方は静かで無駄がなく、まるで計算されたような所作。

 その姿を目にした瞬間、私は思わず息を飲んだ。
 涼やかな切れ長の目、薄く引かれた唇。整った顔立ちは、確かに雑誌のモデルにも劣らない。
 ――けれど、微笑みの奥にある何かが冷たい。

 「真壁亮介です。本日はお時間いただき、ありがとうございます」
 低く落ち着いた声が、空気を震わせた。
 私は軽く会釈を返す。
 「……藤崎美桜です。こちらこそ」

 握手を求められ、手を差し出す。彼の指は温かいのに、体温が心まで届かない感覚がした。

 母が軽く場を整え、形式的な自己紹介が始まる。
 父は仕事で不在だが、何度も会っているかのように真壁は藤崎家の業績や近況を語った。
 外交官らしく、言葉は的確で、相手を不快にさせない距離感を保っている――表面上は。

 「藤崎社長のお嬢様ですから、当然お忙しい日々を送られているのでしょうね」
 「ええ、まあ……父の会社の手伝いも少し」
 「少し、ですか。……なるほど、ではご趣味に時間を割ける」
 その言い回しに、わずかな棘を感じた。

 「外交官の方は、お休みもあまりないと聞きますけれど」
 「仕事が趣味のようなものですから」
 そう言って微笑むが、その笑みは目に届かない。まるでこちらの反応を測っているような、探る視線。

 ――この人、試している。

 母が席を外すと、彼はカップを置き、少し身を乗り出した。
 「単刀直入に申し上げますが、僕は結婚を急いでいません。家のために、という理由もあまり好まない」
 「……奇遇ですね。私もです」
 「ですが、互いの立場を考えると、悪くない条件だとは思いませんか?」
 彼の声は冷静そのもので、感情の温度がほとんど感じられない。

 「条件で人を選ぶのは、外交交渉だけにしていただけます?」
 皮肉を返すと、彼の口元がほんのわずかに上がった。
 「それはつまり――藤崎さんは、交渉相手として僕を認める、ということですね」

 何を言っているの、この人は。
 会話がまるで、恋愛ではなく契約書の読み合わせみたいだ。

 その後も、好きな食べ物や休日の過ごし方といったお見合い定番の質問をしながら、彼は必ず一つ二つ、私の価値観を揺さぶるような言葉を差し込んできた。
 たとえば――
 「理想の結婚相手像は?」と聞かれ、「一緒に笑える人」と答えれば、
 「笑いは長くは続きませんよ。経験上」と返してくる。

 反発心が募る一方で、妙な引力を感じてしまうのが悔しい。
 彼の言葉は挑発的なのに、声の調子や視線の配り方はあくまで洗練されている。
 ――これが外交官のやり方?

 やがて母が戻り、形式的な挨拶でお見合いは終了した。
 立ち上がると、彼が私にだけ聞こえる声で言った。
 「面白い方ですね、藤崎さん。またお会いする機会があるといい」
 私は即座に返す。
 「私は、できればもう結構です」

 エレベーターの扉が閉まる寸前、彼が小さく笑ったのが見えた。
 その笑みは、やっぱりどこか冷たく、けれど妙に印象に残るものだった