あの日から、一週間が経った。
夜明け前の通路で交わした言葉は、今も鮮やかに胸に残っている。
遼と美桜は、恋人という新しい関係を手に入れた。
けれど、それを声高に告げられる立場ではない。職務の規定は厳格で、乗務員同士の私的関係は申告義務がある。遼は既に手続きを進めているが、正式承認までは「表向き何も変わっていない」顔をしなければならなかった。
――けれど、何も変わっていないなんて、到底無理だった。
今日の便はロンドン行き。長距離フライトで、休憩時間も長い。
ブリーフィングルームに入ると、遼は既に着席して資料を確認していた。
目が合った瞬間、ほんのわずかに口元が緩む。
他のクルーがいる中で、それ以上の表情は見せない。それでも、美桜の心は一気に温度を上げた。
「おはようございます、機長」
業務上の挨拶。
だが声の奥にだけ、二人にしかわからない響きを忍ばせる。
遼の低い「おはよう」が返る。
それだけで、秘密を共有する甘やかさと、少しのスリルが背筋を走る。
離陸から二時間後、機内は落ち着き、食事の提供も一段落した。
美桜がギャレーで補充用のボトルを整えていると、背後から低い声がした。
「無理してないか」
振り返れば、遼が通路の陰に立っていた。
「大丈夫です。……ちゃんと仕事してますから」
短いやり取りに、わずかな笑みが交わされる。だが、足音が近づき、森川が入ってくると、二人は自然に距離を取った。
「機長、コーヒーの追加どうします?」
「頼む」
遼の声は再び業務用の低温に戻る。
さっきまでの温度差が、かえって胸を締めつけた。
巡航中、休憩に入った美桜はクルー用の小さな仮眠室に向かった。
カーテンを引いた瞬間、反対側のベッドに遼の姿があった。
偶然にも同じ時間帯に割り当てられたらしい。
薄暗い空間で、二人の呼吸音だけが重なる。
近づけば簡単に触れられる距離。けれど、規律と互いの意地がそれを許さない。
「……眠れるか」
「少しだけ。機長は?」
「同じだ」
低く交わされる声が、余計に眠気を遠ざける。
触れない、言わない。それでも、互いの存在が確かすぎて胸が熱くなる。
目的地まであと二時間という頃、客席の後方で小さな騒ぎが起きた。
乗客の一人が体調を崩し、救急対応が必要になる。
美桜は落ち着いて処置を行い、必要な薬を用意する。
その間、遼は操縦席と医療支援チームとの連絡を取りつつ、何度も後方を振り返っていた。
対応が終わり、乗客の容態が安定すると、遼が後方にやってきた。
他のクルーが近くにいる中、視線だけで「よくやった」と伝えられる。
ほんの一瞬、その視線に触れただけで、疲れが甘く溶けていくのを感じた。
ロンドン到着後、ホテルへの移動バス。
隣同士に座ることはできない。
前方に座る遼の肩越しに、街の灯が流れていく。
――この距離すら愛おしいなんて、少し前の自分では想像もしなかった。
翌朝、ホテルのロビーで集合前のわずかな時間。
人の気配が薄い窓際で、遼が小さく囁いた。
「あと少しで正式承認が下りる。それまで、もう少しだけ耐えろ」
「……耐えられます」
「本当か」
「だって、離陸前に“おはよう”って言えるし、こうして少しでも話せる。それだけで」
遼の瞳がわずかに柔らかくなり、しかしすぐに周囲の気配に気づいて背筋を伸ばした。
集合時間を告げる声が響く。
美桜はその背中を追いながら、心の中でカウントダウンを始めた。
――あと、少し。
夜明け前の通路で交わした言葉は、今も鮮やかに胸に残っている。
遼と美桜は、恋人という新しい関係を手に入れた。
けれど、それを声高に告げられる立場ではない。職務の規定は厳格で、乗務員同士の私的関係は申告義務がある。遼は既に手続きを進めているが、正式承認までは「表向き何も変わっていない」顔をしなければならなかった。
――けれど、何も変わっていないなんて、到底無理だった。
今日の便はロンドン行き。長距離フライトで、休憩時間も長い。
ブリーフィングルームに入ると、遼は既に着席して資料を確認していた。
目が合った瞬間、ほんのわずかに口元が緩む。
他のクルーがいる中で、それ以上の表情は見せない。それでも、美桜の心は一気に温度を上げた。
「おはようございます、機長」
業務上の挨拶。
だが声の奥にだけ、二人にしかわからない響きを忍ばせる。
遼の低い「おはよう」が返る。
それだけで、秘密を共有する甘やかさと、少しのスリルが背筋を走る。
離陸から二時間後、機内は落ち着き、食事の提供も一段落した。
美桜がギャレーで補充用のボトルを整えていると、背後から低い声がした。
「無理してないか」
振り返れば、遼が通路の陰に立っていた。
「大丈夫です。……ちゃんと仕事してますから」
短いやり取りに、わずかな笑みが交わされる。だが、足音が近づき、森川が入ってくると、二人は自然に距離を取った。
「機長、コーヒーの追加どうします?」
「頼む」
遼の声は再び業務用の低温に戻る。
さっきまでの温度差が、かえって胸を締めつけた。
巡航中、休憩に入った美桜はクルー用の小さな仮眠室に向かった。
カーテンを引いた瞬間、反対側のベッドに遼の姿があった。
偶然にも同じ時間帯に割り当てられたらしい。
薄暗い空間で、二人の呼吸音だけが重なる。
近づけば簡単に触れられる距離。けれど、規律と互いの意地がそれを許さない。
「……眠れるか」
「少しだけ。機長は?」
「同じだ」
低く交わされる声が、余計に眠気を遠ざける。
触れない、言わない。それでも、互いの存在が確かすぎて胸が熱くなる。
目的地まであと二時間という頃、客席の後方で小さな騒ぎが起きた。
乗客の一人が体調を崩し、救急対応が必要になる。
美桜は落ち着いて処置を行い、必要な薬を用意する。
その間、遼は操縦席と医療支援チームとの連絡を取りつつ、何度も後方を振り返っていた。
対応が終わり、乗客の容態が安定すると、遼が後方にやってきた。
他のクルーが近くにいる中、視線だけで「よくやった」と伝えられる。
ほんの一瞬、その視線に触れただけで、疲れが甘く溶けていくのを感じた。
ロンドン到着後、ホテルへの移動バス。
隣同士に座ることはできない。
前方に座る遼の肩越しに、街の灯が流れていく。
――この距離すら愛おしいなんて、少し前の自分では想像もしなかった。
翌朝、ホテルのロビーで集合前のわずかな時間。
人の気配が薄い窓際で、遼が小さく囁いた。
「あと少しで正式承認が下りる。それまで、もう少しだけ耐えろ」
「……耐えられます」
「本当か」
「だって、離陸前に“おはよう”って言えるし、こうして少しでも話せる。それだけで」
遼の瞳がわずかに柔らかくなり、しかしすぐに周囲の気配に気づいて背筋を伸ばした。
集合時間を告げる声が響く。
美桜はその背中を追いながら、心の中でカウントダウンを始めた。
――あと、少し。

