二つの航路

 臨時便の翌日、美桜はほとんど眠れないまま成田へ向かった。
 朝焼け前の空は低く、雲は濃い鉛色をしている。ガラス張りの通路を吹き抜ける風は冷たく、制服の上から羽織ったコートの襟を思わず立てた。

 今日は国内線の短距離。けれど、胸の奥は長距離よりも遠く重い。
 ――言葉にしなければ、もう持たない。
 それだけは、はっきりわかっていた。

 ブリーフィングルームに入ると、遼は一番奥の席にいた。
 いつも通り資料を整え、淡々と航路と天候を確認する。視線は必要な相手にだけ向けられ、余計な言葉はひとつもない。
 昨日の「また話す」が、喉の奥で何度も反芻される。

 離陸。短い上昇、すぐに水平飛行。
 客室は朝の眠気で静かだった。美桜は安全確認を終え、前方ギャレーで整備表をめくりながら、心の中の言葉を並べ替える。
 ――仕事中に話すことじゃない。でも、仕事が終わればまた、勇気はどこかへ逃げてしまう。
 通路の先、操縦室へ向かう遼の背中が見えた。
 足が勝手に動く。すれ違いざま、呼吸よりも小さな声で名前を呼んだ。

「……東條機長」

 彼は立ち止まり、振り返った。
 灯りの陰影に切り取られた横顔は、いつもより少しだけ疲れて見えた。

「昨日のこと、話せますか」

 遼の視線が、一拍遅れて美桜に合う。
「ここでは——」と言いかけ、飲み込む。短い沈黙ののち、低い声で告げた。
「着陸後、乗務員通路。誰も来ない方で」

     

 着陸は滑らかだった。
 けれど、心の着地はなめらかではない。片付けを手早く終え、ゲートが閉じられる音を背に受けながら、指示された通路へ向かう。
 人の気配のない奥まった箇所。ガラス越しの滑走路は薄い光を集め、夜明け前のグレーが滲んでいた。

 遼は先に来ていた。腕時計を確かめる仕草すら律動的で、無駄がない。
 近づくと、彼はわずかに姿勢を正した。
「昨日は言い過ぎた。仕事中に感情を持ち込むべきじゃなかった」

「いいえ。……聞けて良かったです」

 声が震えるのを、自分で驚くほど自覚する。
 逃げないと決めたのだ。深く息を吸い、言葉を紡ぐ。

「私、ずっと嫌われてると思ってました。目が合っても逸らされて、話しかけても短く終わって……。でも、助けてくれるときの手は、いつも迷わなくて。あれが“仕事だから”だけなら、私はきっとここまで揺れません」

 遼の喉仏が上下した。
 彼は視線を窓の外へ流し、短く息を吐く。

「俺は、判断を誤らないために距離を置いた。……機長席に座るとき、俺個人の揺れは許されない。社内規定もある。申告すればいいという話ではない。現場で最も冷静でいるべき時に、お前が視界に入ると——冷静でいられない」

 最後の語尾だけ、わずかに熱を帯びた。
 胸の奥で、何かがほどける音がした。けれど、同時に突き刺さる棘もある。

「でも、私には何も言ってくれなかった。直哉と話すだけで視線を逸らして、森川さんと並ぶあなたを見せつけられるみたいで……。私、海外拠点の話を受けようかと本気で迷ってました。ここにいるのが、苦しくて」

 遼の眉がわずかに寄る。
「……直哉とは、どうなんだ」

「どうにも、なってません。ずっと同期で、頼れる友達。それ以上も以下も。あなたが思っているようなことは、何も」

 言い切ると、遼は短く目を伏せた。
 再び顔を上げたとき、その瞳は迷いと覚悟の間を過ぎて、どこか一点に結ばれていた。

「俺は、お前が誰かと笑っているのが怖かった。羨ましかった。仕事を理由に、正面から言わないまま安全圏に逃げ続けた。……それで、失うところだった」

 言葉は、低いがまっすぐだった。
 胸の奥がきゅっと痛むほど、嬉しい。けれど、ここで溶けてしまっては、また同じ場所に戻る。

「私は、あなたの『安全圏』にはなりたくない。仕事のために距離を置かれる“存在”じゃなく、あなたが自分で選ぶ“人”でいたい」

 自分でも驚くほど、声は安定していた。
 遼は一歩近づき、ほんの瞬きほどの間、言葉を探すように沈黙する。

「選ぶ。……そうだな。なら、俺は選ぶ。規定は守る。申告もする。周囲に誤解を与える態度はやめる。全部やった上で、それでも——お前の隣にいたい」

 足もとから力が抜けそうになり、思わず壁に手をついた。
 遼の手が反射的に伸び、支える。触れたところが熱い。
 近い。心拍の音が、互いに聞こえてしまいそうだ。

「確認させてくれ。……お前は、ここに残る気があるか」

「“ここ”が——あなたの隣を含むなら」

 遼の目が、一瞬だけ揺れて、すぐに柔らかく笑った。
 今まで見たことのない、少しだけ不器用な笑み。

「含む。約束する」

 指先が離れてしまうのが怖くて、思わずその手首を掴む。
 ガラスの向こう、滑走路にオレンジ色の線が差し込み、夜と朝の境目が淡く溶けていく。
 世界が色を取り戻すのと同じ速度で、胸の中の暗さが薄れていくのがわかった。

「……森川さんのこと、好きなんだと思ってました」

「同僚だ。長く飛んだ相棒として尊敬している。俺が“好きだ”と形を与えたのは、最初からお前だけだ」

 息が詰まる。
 自分の頬が熱くなるのがわかった。視界がにじむ。
 拭う手の甲に、遼の指先がそっと触れた。涙を乱暴に扱わない、操縦と同じ正確さで。

「直哉には、俺から礼を言う。お前を支えた時間があるのなら、俺はそれに嫉妬し、そして感謝するべきだ」

「……器用じゃないですね」

「生まれつきだ」

 ふっと笑いがこぼれる。
 緊張が解け、同時に新しい張りつめが生まれる。これは約束に伴う責任の重さ。けれど、その重さは怖くない。

「申告は俺がする。お前には、お前の歩幅でいてほしい。急がせない。ただ——」

「ただ?」

「手を離すつもりは、ない」

 言葉はシンプルで、逃げ道がない。
 それがこんなにも心強いものだと、初めて知った。

 遠くで始発の地上車両が動き出す音がした。
 空はもう、薄い青へと明度を上げている。
 このまま抱きしめ合うことは簡単だ。けれど、彼は一線を越えない。
 代わりに、美桜の手を静かに取り、指を絡めた。

「業務に戻る前に、ひとつだけ言わせろ」

 遼は、まっすぐに見つめる。
 その瞳に、逃げ隠れの影はもうない。

「佐伯美桜。お前が好きだ。職務より軽んじるつもりはない。だが、職務を理由にお前を手放すことも、もうしない」

 胸が、音を立ててほどけた。
 言葉は、いつかの乱気流とは違う形で、美桜の全身を揺らす。
 彼の手を強く握り返す。声が自然に出た。

「私も、東條遼が好きです。仕事も、空も、あなたも。全部を同じ場所に置く方法を、一緒に探してほしい」

「了解した」

 短い返事に、彼らしいユーモアが混じる。
 指先がほどけ、名残の熱だけが残る。
 背筋を伸ばして、二人は同じ方向へ歩き出した。通路の先、新しい日勤表が待っている。

 ガラスの外、朝日が雲の縁を金色に縁取る。
 雲間に差す光の帯は、滑走路の白線と交わり、遠くへ伸びていく。
 どこまでも続くはずの道の、最初の一歩を踏む音が、不思議と軽かった。