あの出来事以来、私は颯真との距離を意識的に広げるようになった。
 同じ屋根の下に住んでいても、顔を合わせるのは最低限。
 朝食は時間をずらし、帰宅もわざと遅くした。

 ──婚約者だからといって、必要以上に近づく必要はない。
 その方が、お互いのためだ。

 けれど、そう思って行動しているのに、彼はなぜか常に私の行動を把握していた。

「今日は帰りが遅かったな。誰と会っていた?」

「……ただの仕事よ。報告義務でもあるの?」

「ある。お前は俺の婚約者だ」

 その言い方が、胸の奥に冷たい針を刺す。
 ──やっぱり、立場のため。
 私が“誰のものか”を示すためだけの言葉。



 そんなある夜、友人の美里に誘われて小さなバーに立ち寄った。
 カウンターで他愛ない話をしていると、偶然隣の席に座っていた男性客が笑顔で声をかけてきた。

「もしかして橘さん? 業界紙でお名前を拝見しましたよ」

「えっ……あ、ありがとうございます」

 軽い会話だった。
 それ以上の意味なんてなかったはずなのに──。

「……楽しそうだな」

 背後から低い声が落ちた。
 振り向くと、そこにはスーツ姿の颯真が立っていた。
 鋭い視線が男性客に向けられる。

「彼女は俺と帰る。悪いが、これ以上は失礼する」

 強引に私の腕を引き、半ば抱き寄せるようにして店を出た。

「な、何なのよ急に!」

「夜遅くに男と酒を飲む婚約者なんて、聞いたことがない」

「……婚約者だから、また?」

「そうだ。……それに、見たくない」

「え?」

「他の男と、あんな顔で話すお前を」

 一瞬、言葉を失った。
 けれど次の瞬間、“それもきっと立場のため”という考えが心を覆う。
 私のためじゃない。
 彼の体面のためだ。

「……誤解よ。ただの世間話。心配する必要なんてない」

「必要がある」

 短く言い切ると、颯真はそれ以上何も言わなかった。
 沈黙のまま歩く横顔は、やっぱり私には読めない。



 帰宅後、自室に入った途端、心臓が早鐘を打っていることに気づいた。
 ──あの声、あの目。
 “見たくない”と言ったときの彼の表情が、頭から離れない。
 それが嫉妬なのか、ただの独占欲なのかも分からない。
 近づけば近づくほど、彼は私から遠くに感じる。