同居生活にも少し慣れた頃、私は父の会社から急ぎの資料を届けるよう頼まれた。
 行き先は──一ノ瀬グループ本社。
 颯真の執務室に入るのは初めてだった。

「失礼します」

 ノックして扉を開けた瞬間、私は足を止めた。
 室内には颯真と……あの女性がいた。

「──美玲」

 颯真がこちらを振り向く。その横で、女性が優雅に微笑んだ。
 艶やかな黒髪、落ち着いた雰囲気、そして自然に颯真のそばに立つ距離感。
 あのとき中学の校門前で見た姿と、何も変わっていない。

「久しぶりね、美玲さん。私は一ノ瀬 美沙。颯真の従姉よ」

 その声は柔らかく、礼儀正しい。
 ──従姉。
 そう紹介されたのに、私の胸の奥では警戒心が膨らんでいく。
 従姉だからこそ、家族ぐるみで仲が良く、噂になるような距離感になるのではないか……。

「先ほどの件は内密にお願いしますね、颯真」

「ああ」

 彼らが交わす視線は短くても、どこか親密に見えた。
 資料を渡す手が少し震える。

「それじゃあ私は失礼するわ。またね、美玲さん」

 美沙さんがすれ違いざま、私にだけ分かるくらい小さく微笑んだ。
 それが挑発なのか、ただの愛想なのか分からない。
 でも胸がざわつく。

 扉が閉まった後、颯真が私に近づく。

「何をそんなに固まっている?」

「……別に。お邪魔だったみたいだから」

「邪魔じゃない。仕事の話だ」

「そういうことにしておくわ」

 吐き捨てるように言って、私は踵を返した。
 背中越しに颯真が何か言いかけた気配があったけれど、聞きたくなかった。
 ──これ以上、余計な期待なんてしたくない。



 その夜、同僚の真理子からメッセージが届いた。
 《ねえ聞いた? 一ノ瀬副社長、この前のパーティーでも本命の女性と一緒にいたって》
 《従姉って紹介してたらしいけど、どう見ても恋人同士だったって》

 ……やっぱり。
 私が見たのは、きっと“本当”なんだ。

 胸が冷たくなっていく感覚を抱えながら、私はスマホを伏せた。
 ──婚約者という立場が、これほど虚しいなんて。