それは、会社の懇親会のときだった。
 取引先の若手社員が、グラスを片手に笑顔で近づいてきた。

「橘さん、この間のプレゼン、本当に素晴らしかったですよ。僕、あれ見て感動しました」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」

 社交辞令半分、本心半分で返すと、彼はますます楽しそうに笑った。
 普段、颯真の前ではこんな自然な笑みを見せられない自分が、少しだけ情けなくもあった。

「もしよかったら、今度──」

 彼が言いかけた瞬間。

「悪いが、彼女は俺と話がある」

 低く、鋭い声が割り込んだ。
 振り向けば、颯真が私の手首を掴んでいた。
 その手は驚くほど熱く、力強かった。

「……一ノ瀬副社長」

 若手社員は一瞬たじろぎ、慌てて頭を下げて離れていく。
 颯真は無言のまま、私を会場の隅まで引っ張った。

「……何、あれ」

「何って、お前があんな風に笑って話す相手は俺だけでいい」

「……は? それって、婚約者だからってこと?」

「そうだ」

 即答されたその言葉に、胸の奥がちくりと痛む。
 ──やっぱり義務。
 好きだからじゃなくて、“婚約者だから守る”だけ。
 そう思うと、さっきまでの熱はすぐに冷えていった。

「勘違いしないで。私、誰と話してもあなたには関係ないから」

「……関係ある」

 低く押し殺した声。
 でもその瞳は、私が知っている冷たい光じゃなかった。
 言葉の意味を探そうとした瞬間、彼はふっと視線を逸らし、「帰るぞ」とだけ言って歩き出す。
 追いかけるしかなかった。



 車の中は沈黙だった。
 けれど、手首にはまだ彼の温もりが残っている。
 それが妙に意識に焼き付き、心をさらにかき乱す。
 ──どうして、こんなに分からない人なんだろう。
 好きじゃないはずなのに、どうして私の心はこんなにも彼に揺れるのだろう。