婚約会見から一週間後。
 私は颯真の提案──いや、一方的な決定──で、一ノ瀬家のゲストウイングに引っ越してきた。
 「婚約者としての自覚を持て」なんて言われたけれど、正直、落ち着かない。
 彼の家は想像以上に広く、どこも整然と片付いていて、冷たい美しさがあった。
 ──まるで彼自身みたいに。

「朝食はダイニングに運ばせてある。七時半でいいな」

 リビングでの第一声がそれだった。
 まるで業務連絡。
 私が頷くと、颯真は視線を外し、手元のタブレットに目を落とす。
 婚約者になったって、態度は昔と変わらない……。

「それと、夜は遅くなるな。出かける時は必ず連絡を入れろ」

「……監視?」

「違う。お前が心配なんだ」

 即答されたけれど、その言葉が真実かどうか、私には分からなかった。
 だって、心配なんてするような人じゃない──少なくとも、私に対しては。



 そんなある日、父の会社のパーティーに出席したときのこと。
 会場の隅で、颯真が誰かと話しているのが目に入った。
 視線の先には、見覚えのある女性。
 ──中学のとき、颯真が柔らかく笑いかけていたあの人だ。

 距離があって会話までは聞こえない。
 けれど、彼女の笑顔と、颯真の低い声が妙に親密に見えてしまう。
 胸の奥がずしんと重くなった。

「美玲ちゃん、あの人知ってる?」
 近くにいた真理子が囁く。
「噂の“本命”って言われてる人よ。一ノ瀬副社長の従姉さんらしいけど、すごく仲がいいって」

 ──やっぱり。
 婚約はただの建前。
 本当に好きなのは、あの人なんだ。



 帰宅後、私は黙ったままリビングのソファに沈み込んだ。
 颯真はネクタイを緩め、こちらを見下ろす。

「……何かあったか?」

「別に」

 短く返すと、彼の眉がわずかに寄る。
 それ以上追及もせず、颯真は「明日は朝早い」とだけ言って自室に戻っていった。

 ──やっぱり、私のことなんて大事じゃない。
 そう思う一方で、心のどこかが、彼の言葉や態度に揺さぶられてしまう。
 この同居生活は、私の心をますます混乱させるだけだった。