「……婚約って、誰と?」

 念のため確認した私に、父は当然のように言った。

「一ノ瀬 颯真さんだ」

「……っ!」

 息が詰まる。
 どうして彼なのか。
 ──いや、理由は分かっている。
 橘グループと一ノ瀬グループの結びつきは長く、互いの利害は一致している。
 私と彼が結婚すれば、経営的にも世間的にも完璧な組み合わせに見えるだろう。
 けれど、それは会社にとっての“最良”であって、私の心のためじゃない。

「……彼には、本命の人がいるって噂、知ってる?」

 震える声で尋ねると、父は眉をひそめた。

「そんなものは根拠のない憶測だ。颯真君はお前との婚約を強く望んでいる」

「……え?」

 その言葉が、一瞬、耳に入りきらなかった。
 颯真が……私との婚約を望んでいる?
 そんなはずない。
 冷たくて、距離を置かれて、視線すら滅多に合わない人なのに。

「詳しい話は、本人から聞きなさい。週末、婚約の会見を行う。心の準備をしておけ」

 父はそれだけ言ってデスクに向き直る。
 私は椅子に沈み込み、胸の奥で何かがざわつくのを感じていた。
 ──政略結婚。それ以外に説明なんてない。
 きっと父の言う「強く望んだ」というのも、経営者としての彼の計算のうちだ。



 婚約会見の日。
 ホテルの大広間は、報道陣のフラッシュとざわめきで満ちていた。
 私は淡いブルーのドレスに身を包み、颯真の隣に座る。
 距離は近いのに、彼の体温も表情も、相変わらず掴めない。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

 低くよく通る声。
 颯真がマイクを持つと、会場が一瞬静まった。

「このたび、私 一ノ瀬颯真は、橘 美玲さんと婚約いたしました」

 淡々とした口調。
 けれど、次の言葉が私の耳を打つ。

「彼女は、私にとって唯一無二の存在です。昔から、ずっと」

 ──唯一無二。
 私のことを……?
 動揺で胸がざわめく。
 けれどすぐに、“きっと建前だ”という声が心の中から湧き上がる。
 報道陣向けの、美しい台詞。
 ──噂の彼女と比べて、私は“選ばれた”ように見せるための。

 拍手が広がる中、颯真がこちらに視線を向けた。
 その瞳は真っ直ぐで、何かを言いたげに見えたけれど……私は目を逸らしてしまった。
 誤解だらけの関係が、ここから始まるなんて──その時の私はまだ、想像もしていなかった。