その日は取引先のイベントの手伝いで、郊外の会場へ出向いていた。
 屋外テントでの準備も終わり、スタッフと控室で休憩していた時だ。
 突然、外で怒鳴り声が上がった。

「おい、さっきの資料どうするつもりだ!」

 何事かと覗くと、取引先の下請け業者が、手違いで重要書類を紛失したらしい。
 私は状況を確認するために近づいたが、担当者は焦りと苛立ちで私にまで声を荒げた。

「こっちだって必死なんだ! 偉そうに指図すんな!」

 一歩踏み出しかけた瞬間──。

「彼女に手を出すな」

 背後から低い声が響いた。
 振り返れば、颯真が立っていた。
 黒いスーツの裾を揺らし、業者に冷ややかな視線を向けている。

「あなたは……」

「偶然通りかかった」

 そう言いながら、颯真は私を背後にかばい、業者と視線を合わせる。

「状況は聞いた。だが責任を押し付けるのは筋違いだ。資料は既にこちらのチームで確保している。落ち着いて対応しろ」

 その言葉と冷静な態度に、周囲の空気が一気に引き締まる。
 数分後、問題は収束した。



 帰りの車の中。
 颯真は運転しながら、前を見たまま言った。

「……無茶をするな。お前は、もっと自分を守れ」

「……ありがとう。でも、どうしてここに?」

「……偶然、じゃない」

「え?」

「お前が郊外に出ると聞いて、気になった。……心配だった」

 胸の奥がじんと熱くなる。
 でも、すぐにその熱をかき消すように、自分に言い聞かせる。

「それも……婚約者だから?」

「……そう思うなら、それでいい」

 短い沈黙。
 私は何も返せなかった。
 窓の外に流れる景色を見ながら、心の中で呟く。
 ──信じたい。
 でも、まだ怖い。



 屋敷に着く頃には、すっかり夜になっていた。
 颯真はドアの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。

「……おやすみ、美玲」

 その声音は、不思議なほど優しかった。
 でも、私はやはり背中を向けたまま、「おやすみなさい」と小さく答えるしかなかった。