秋めいた風が吹き抜ける夕暮れの街を、美緒はひとり歩いていた。
 商店街で買った野菜やパンを紙袋に詰め、帰路を急ぐ。
 ふとした瞬間、背後に気配を感じた。

 カツ、カツ、と靴音。
 最初は偶然だと思った。だが曲がり角をいくつ越えても、その足音は距離を保ったままついてくる。

 ――気のせい、よね。

 自分にそう言い聞かせても、背筋に冷たいものが走る。
 買い物袋を握る手に汗が滲む。
 歩く速度を速めると、靴音もまた速まった。

     

 マンションのエントランスに駆け込んだときには、心臓が破れそうなほど高鳴っていた。
 恐る恐る振り返るが、そこに人影はない。
 安堵と同時に膝から力が抜け、紙袋が床に落ちてしまった。

 ――考えすぎ……?

 無理に笑みを浮かべて自分に言い聞かせる。
 けれど、あの靴音の規則的な響きは、今も耳の奥に残っていた。

     

 夜。帰宅した悠真に、美緒は意を決して切り出した。
「ねえ、今日……変な人につけられてる気がしたの」

 彼の瞳が鋭く揺れる。
「詳しく話せ」
「ただの気のせいかもしれないけど……」
「いいから」

 短く強い口調に、美緒は思わず肩を震わせる。
 悠真は美緒の様子をじっと見つめ、そして深く息を吐いた。
「……何もなかったんだな?」
「うん。最後は、誰もいなかった」

 安堵の影を浮かべつつも、悠真の眉間には深い皺が刻まれていた。
 その表情がかえって不安を煽る。

「悠真……まさか、あなたの仕事と関係あるの?」
 問いかけた瞬間、彼の顔に硬い影が落ちた。

「美緒、これ以上は詮索するな」
「でも――」
「いいか、今日は絶対に外に出るな」

 有無を言わせぬ声に、美緒は口を閉ざした。
 彼は普段、穏やかで優しい。
 だからこそ、今の冷徹さが余計に恐ろしく感じられた。

     

 翌日。
 美緒は窓越しに外を眺めながら、落ち着かない時間を過ごしていた。
 洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、向かいの路地に立つ一人の男と目が合った。

 無精髭を生やし、暗い色のコートを羽織った男。
 目が合うと、ゆっくりと背を向けて歩き去っていった。

 心臓が跳ね、手にしていたシャツを落とす。
 ――やっぱり、気のせいなんかじゃなかった。

 その瞬間、美緒の胸にひとつの確信が芽生えた。
 これは、悠真の仕事と関係している。
 彼が抱える「公安」という名の闇に、自分も巻き込まれ始めている。

     

 夜遅く帰宅した悠真に、美緒は震える声で告げた。
「ねえ……もう隠さないで。何が起きてるの? わたし、狙われてるの?」

 悠真の瞳に、一瞬だけ揺らぎが走った。
 だがすぐに彼は顔を引き締め、低く言い放つ。

「美緒。約束しろ。絶対に俺の言うことを守れ」
「……答えてよ」
「守らなければ、君の命が危ない」

 その言葉は、愛の告白よりも重たく、美緒の心に突き刺さった。
 ――本当に何かが起きている。
 夫婦の亀裂は、いまや恐怖へと姿を変え始めていた。