翌朝、リビングの空気は張りつめていた。
いつもと同じように美緒は朝食を並べたけれど、テーブルに並んだ皿を前にしても会話は生まれない。
「……いただきます」
悠真の低い声。
それに続く美緒の「いただきます」は、かすれていた。
フォークと皿の小さな音だけが響く。
昨夜の出来事が互いの胸に残り、言葉を紡ぐ余裕を奪っていた。
「悠真……」
思い切って声を掛ける。
しかし彼は顔を上げずに「なんだ」とだけ返した。
そのぶっきらぼうな調子に、美緒の喉はひゅっと狭まる。
「……ううん、なんでもない」
そう言って視線を落とした瞬間、彼女の胸に冷たい波が広がった。
午後。美緒は買い物袋を下げて帰宅した。
玄関に靴はない。夫はすでに出勤していた。
テーブルに置かれていたのは、短いメモとコンビニのコーヒーの空きカップ。
《急な呼び出し。夕食いらない》
几帳面な文字。それなのに、美緒の胸には突き刺さるような無機質さが残る。
“刑事だから仕方ない”と自分に言い聞かせる。それでも、昨夜の会話が蘇る。
公安。
あの二文字が、夫婦の間に深い溝を作ってしまったように思えた。
週末。母の誕生日に合わせて実家へ帰った美緒は、自然と愚痴をこぼしていた。
「最近、なんだか……遠いの。前より話してくれなくなったっていうか」
母はしばし黙り、湯呑を口にしてから答えた。
「警察の仕事って、私たちが想像できないくらい大変なんだと思うわ。言えないことも多いんじゃないかしら」
「でも、それって……夫婦なのに?」
母は柔らかく微笑む。
「夫婦だからこそ、言えないこともあるのよ。信じるしかないこともね」
――信じる。
そう簡単にできるなら、こんなに苦しくはない。
夜。帰宅した美緒は、ソファに座る悠真を見て足を止めた。
スーツのまま、ネクタイを緩めた姿。
部屋の灯りもつけず、ただ暗闇に沈んでいる。
「……おかえり」
声をかけると、彼は一瞬こちらを見て「ただいま」と答えた。
その瞳には深い疲労が宿り、言葉を継ぐ余裕はなさそうだった。
「ねえ、悠真」
「なんだ」
「わたし……、あなたのこと、全然知らないんだなって思うの」
沈黙。
数秒ののち、彼は小さく吐き出すように言った。
「知らなくていい」
その一言が、胸を鋭く突いた。
守られているのか、突き放されているのか――答えは見つからない。
美緒は涙をこらえ、立ち上がる。
「もう寝るね」
背を向けた瞬間、後ろから伸ばされるはずの腕は、今夜はなかった。
静まり返った寝室で、布団を握りしめながら、美緒は初めて「孤独」という言葉をはっきりと感じた。
夫婦でありながら、心は並行線を辿る。
愛しているはずなのに、互いに触れられない壁が立ちはだかっていた。
――それが、嵐の前触れだとは、このときの美緒はまだ知らなかった。
いつもと同じように美緒は朝食を並べたけれど、テーブルに並んだ皿を前にしても会話は生まれない。
「……いただきます」
悠真の低い声。
それに続く美緒の「いただきます」は、かすれていた。
フォークと皿の小さな音だけが響く。
昨夜の出来事が互いの胸に残り、言葉を紡ぐ余裕を奪っていた。
「悠真……」
思い切って声を掛ける。
しかし彼は顔を上げずに「なんだ」とだけ返した。
そのぶっきらぼうな調子に、美緒の喉はひゅっと狭まる。
「……ううん、なんでもない」
そう言って視線を落とした瞬間、彼女の胸に冷たい波が広がった。
午後。美緒は買い物袋を下げて帰宅した。
玄関に靴はない。夫はすでに出勤していた。
テーブルに置かれていたのは、短いメモとコンビニのコーヒーの空きカップ。
《急な呼び出し。夕食いらない》
几帳面な文字。それなのに、美緒の胸には突き刺さるような無機質さが残る。
“刑事だから仕方ない”と自分に言い聞かせる。それでも、昨夜の会話が蘇る。
公安。
あの二文字が、夫婦の間に深い溝を作ってしまったように思えた。
週末。母の誕生日に合わせて実家へ帰った美緒は、自然と愚痴をこぼしていた。
「最近、なんだか……遠いの。前より話してくれなくなったっていうか」
母はしばし黙り、湯呑を口にしてから答えた。
「警察の仕事って、私たちが想像できないくらい大変なんだと思うわ。言えないことも多いんじゃないかしら」
「でも、それって……夫婦なのに?」
母は柔らかく微笑む。
「夫婦だからこそ、言えないこともあるのよ。信じるしかないこともね」
――信じる。
そう簡単にできるなら、こんなに苦しくはない。
夜。帰宅した美緒は、ソファに座る悠真を見て足を止めた。
スーツのまま、ネクタイを緩めた姿。
部屋の灯りもつけず、ただ暗闇に沈んでいる。
「……おかえり」
声をかけると、彼は一瞬こちらを見て「ただいま」と答えた。
その瞳には深い疲労が宿り、言葉を継ぐ余裕はなさそうだった。
「ねえ、悠真」
「なんだ」
「わたし……、あなたのこと、全然知らないんだなって思うの」
沈黙。
数秒ののち、彼は小さく吐き出すように言った。
「知らなくていい」
その一言が、胸を鋭く突いた。
守られているのか、突き放されているのか――答えは見つからない。
美緒は涙をこらえ、立ち上がる。
「もう寝るね」
背を向けた瞬間、後ろから伸ばされるはずの腕は、今夜はなかった。
静まり返った寝室で、布団を握りしめながら、美緒は初めて「孤独」という言葉をはっきりと感じた。
夫婦でありながら、心は並行線を辿る。
愛しているはずなのに、互いに触れられない壁が立ちはだかっていた。
――それが、嵐の前触れだとは、このときの美緒はまだ知らなかった。

