ある夜、美緒は眠れずにいた。
 隣では悠真が疲れ切ったように眠っている。浅い寝息を聞きながら、美緒はリビングへと降りた。
 コーヒーを淹れようとしたわけでも、テレビをつけるつもりでもない。ただ、静寂に包まれた部屋で自分の心を整理したかった。

 ふと視線が吸い寄せられたのは、ソファの横に置かれた黒い鞄だった。
 悠真がいつも仕事に持っていくもの。普段なら絶対に手を触れない。けれど、その夜はどうしても目を逸らせなかった。

 ――開けてはいけない。
 そう分かっているのに、指先が勝手に動いてしまう。

 鞄の中には書類が詰まっていた。その中に一枚、封筒が覗いている。
 ためらいながら引き抜くと、そこには「公安課」の三文字がはっきりと記されていた。

 公安課
 どこかで聞いたことのある言葉。ニュースで耳にしたことはある。だが、具体的に何をする部署なのか、美緒にはよく分からなかった。
 胸の鼓動が早まる。知らなかった夫の姿が、急に手の届かない遠いものに感じられた。

 そのとき。

「……美緒」
 低く抑えた声が背後から降ってきた。
 振り返ると、いつの間にか悠真が立っていた。眠気を感じさせない、鋭い眼差し。

「何をしてる」
「……ごめんなさい、私……。ただ、気になって」

 震える声で言い訳をする美緒に、悠真は一歩近づいた。
 書類を無言で奪い返し、深いため息をつく。

「見てはいけないって、分かるだろ」
「だって……公安って……あなた、刑事じゃないの?」

 美緒の問いに、悠真の表情がわずかに揺れた。
 しかし次の瞬間には、硬く閉ざされた顔に戻る。

「その言葉は忘れろ。聞かなかったことにしてくれ」
「忘れろって……。夫婦でしょ? どうして話してくれないの?」

 切実な叫びは、虚空に吸い込まれていくようだった。
 悠真は視線を逸らし、低く、短く答える。

「お前を守るためだ」

 守る。
 その言葉の意味を、美緒は考えた。
 けれど――隠されることが、どうして守ることに繋がるのだろう。

「……わたしは、信用されてないの?」
「違う。ただ、これ以上は言えない」

 突き放すような言葉に、美緒の胸は痛んだ。
 信じたい。愛されていると分かっている。
 それでも、夫婦の間に大きな壁がある現実が、美緒の心を締めつける。

 やがて悠真は短く「もう寝ろ」と告げて寝室へ戻っていった。
 残された美緒は、静かなリビングにひとり立ち尽くす。

 テーブルに置かれたコーヒーカップに、朝まで冷め切らぬ不安が映っていた。