九月の空は重たく沈み、今にも泣き出しそうな雲が町を覆っていた。
その日、桜保存のために集めた署名用紙を町議会へ提出する大切な日だった。
愛桜は制服の胸元を押さえながら、昇降口に立っていた。手には、雨除けのためビニールに包んだファイル。
「……来てくれるよね、琥太郎君」
小さく呟く声は、蝉の鳴き声にもかき消されてしまいそうだった。
放課後。校門前には、静、大希、真季、雅、そして愛桜の姿があった。
「琥太郎、まだ来てないのか?」
真季が不安そうに辺りを見回す。
「ファイルは彼が持っているはずよ。印鑑付きの原本は全部そっちに渡してある」
静の声に、場の空気が張りつめる。
「……信じてる。きっと、来るよ」
愛桜が強く言い切ったそのときだった。
遠くから走ってくる足音が聞こえた――ような気がして、皆の視線が一斉に向く。
……が、その道に琥太郎の姿はなかった。
そのころ、琥太郎は校舎裏の非常階段にうずくまっていた。
膝に抱えたファイルは、ひと雨浴びたように濡れていた。
「無理だ……やっぱり俺には、できない……」
心の中に張り巡らされた言い訳の網が、自分自身をがんじがらめにしていた。
(どうして、また逃げた? また……)
唇をかみ締め、額を膝に押しつける。目の奥が熱くなった。
そのとき、遠くで雷鳴が響いた。
議会提出の受付時間が迫っている。
愛桜はファイルを受け取れぬまま、土砂降りの雨の中を歩き出した。
「行こう。時間がない……!」
大希が傘もささずに先頭を歩く。静がビニールの封筒を必死に抱えて後に続き、真季はびしょ濡れのスカートを気にせず走った。
愛桜も、片手で心臓を押さえながら必死に足を動かした。
そして議会庁舎に到着したとき、制服は雨でずぶ濡れになっていた。
それでも、愛桜は震える手で署名用紙を取り出し、受付の机にそっと差し出す。
「……こちら、署名……です」
職員が目を丸くしながらファイルを受け取る。
「ずいぶん濡れてますね……ですが、確かに受け取りました」
その言葉に、愛桜は深く、静かに頭を下げた。
庁舎を出る頃には、空の雲もいくぶん薄れ始めていた。
だが、愛桜たちの服は依然として濡れたままで、肩にかけた鞄からは滴がぽたりと地面に落ちた。
「……よく頑張ったな」
大希が短くそう言うと、真季がその言葉を継ぐように笑った。
「うん、濡れてボロボロのファイルだったけど……愛がこもってた!」
静は静かにため息をつき、腕時計を確認した。
「タイムリミットぎりぎりだったけど、提出は間に合った。これで、あとは町の判断を待つだけ」
その言葉に、愛桜はホッと息をついた。そして、ふと思い出したように背後を振り返った。
そこに、琥太郎の姿はなかった。
そのころ、琥太郎はまだ校舎裏の階段に座っていた。
自分の持っていたファイルは、雨に濡れて使いものにならなくなっていた。
それでも、ただそこにいることしかできなかった。
ずぶ濡れのファイルを見つめるたびに、胸がずきずきと痛む。
「俺……また逃げたんだな」
呟いた声は、風とともに流れて消えた。
その夜。グループチャットには何も通知が来なかった。
恐る恐るアプリを開くと、静が議会提出の報告だけを簡潔に記していた。
〈資料は無事受理。次回の会合で議題に上がる予定〉
そこには怒りも、責めもなかった。ただの報告だった。
それが、かえって胸を締めつけた。
ふと、琥太郎のスマホに個人チャットの通知が届く。
差出人は、愛桜だった。
〈大丈夫。雨に濡れても、署名は残ったから〉
たったそれだけの言葉。
でも、その一行が、琥太郎の心を深く揺さぶった。
(……俺、なんで、行けなかったんだろう)
その問いに、答えは出なかった。ただ、後悔だけが、じっとりと心を濡らしていた。
次の日、教室に入っても、誰もその話には触れなかった。
ただ静かに、いつもの日常が流れていた。
そのなかで、琥太郎はたったひとつだけ、自分に誓った。
――次こそは、逃げない。
その言葉だけを胸に刻みながら、愛桜の背中を、そっと見つめていた。
その日、桜保存のために集めた署名用紙を町議会へ提出する大切な日だった。
愛桜は制服の胸元を押さえながら、昇降口に立っていた。手には、雨除けのためビニールに包んだファイル。
「……来てくれるよね、琥太郎君」
小さく呟く声は、蝉の鳴き声にもかき消されてしまいそうだった。
放課後。校門前には、静、大希、真季、雅、そして愛桜の姿があった。
「琥太郎、まだ来てないのか?」
真季が不安そうに辺りを見回す。
「ファイルは彼が持っているはずよ。印鑑付きの原本は全部そっちに渡してある」
静の声に、場の空気が張りつめる。
「……信じてる。きっと、来るよ」
愛桜が強く言い切ったそのときだった。
遠くから走ってくる足音が聞こえた――ような気がして、皆の視線が一斉に向く。
……が、その道に琥太郎の姿はなかった。
そのころ、琥太郎は校舎裏の非常階段にうずくまっていた。
膝に抱えたファイルは、ひと雨浴びたように濡れていた。
「無理だ……やっぱり俺には、できない……」
心の中に張り巡らされた言い訳の網が、自分自身をがんじがらめにしていた。
(どうして、また逃げた? また……)
唇をかみ締め、額を膝に押しつける。目の奥が熱くなった。
そのとき、遠くで雷鳴が響いた。
議会提出の受付時間が迫っている。
愛桜はファイルを受け取れぬまま、土砂降りの雨の中を歩き出した。
「行こう。時間がない……!」
大希が傘もささずに先頭を歩く。静がビニールの封筒を必死に抱えて後に続き、真季はびしょ濡れのスカートを気にせず走った。
愛桜も、片手で心臓を押さえながら必死に足を動かした。
そして議会庁舎に到着したとき、制服は雨でずぶ濡れになっていた。
それでも、愛桜は震える手で署名用紙を取り出し、受付の机にそっと差し出す。
「……こちら、署名……です」
職員が目を丸くしながらファイルを受け取る。
「ずいぶん濡れてますね……ですが、確かに受け取りました」
その言葉に、愛桜は深く、静かに頭を下げた。
庁舎を出る頃には、空の雲もいくぶん薄れ始めていた。
だが、愛桜たちの服は依然として濡れたままで、肩にかけた鞄からは滴がぽたりと地面に落ちた。
「……よく頑張ったな」
大希が短くそう言うと、真季がその言葉を継ぐように笑った。
「うん、濡れてボロボロのファイルだったけど……愛がこもってた!」
静は静かにため息をつき、腕時計を確認した。
「タイムリミットぎりぎりだったけど、提出は間に合った。これで、あとは町の判断を待つだけ」
その言葉に、愛桜はホッと息をついた。そして、ふと思い出したように背後を振り返った。
そこに、琥太郎の姿はなかった。
そのころ、琥太郎はまだ校舎裏の階段に座っていた。
自分の持っていたファイルは、雨に濡れて使いものにならなくなっていた。
それでも、ただそこにいることしかできなかった。
ずぶ濡れのファイルを見つめるたびに、胸がずきずきと痛む。
「俺……また逃げたんだな」
呟いた声は、風とともに流れて消えた。
その夜。グループチャットには何も通知が来なかった。
恐る恐るアプリを開くと、静が議会提出の報告だけを簡潔に記していた。
〈資料は無事受理。次回の会合で議題に上がる予定〉
そこには怒りも、責めもなかった。ただの報告だった。
それが、かえって胸を締めつけた。
ふと、琥太郎のスマホに個人チャットの通知が届く。
差出人は、愛桜だった。
〈大丈夫。雨に濡れても、署名は残ったから〉
たったそれだけの言葉。
でも、その一行が、琥太郎の心を深く揺さぶった。
(……俺、なんで、行けなかったんだろう)
その問いに、答えは出なかった。ただ、後悔だけが、じっとりと心を濡らしていた。
次の日、教室に入っても、誰もその話には触れなかった。
ただ静かに、いつもの日常が流れていた。
そのなかで、琥太郎はたったひとつだけ、自分に誓った。
――次こそは、逃げない。
その言葉だけを胸に刻みながら、愛桜の背中を、そっと見つめていた。



