八月の朝。町の掲示板に、赤い紙で貼り出された通知があった。
〈今年度の桜町夏祭りにおける花火大会は中止といたします〉
〈理由:道路拡張工事に伴う安全上の懸念〉
その文字を、愛桜はしばらくじっと見つめていた。
背後から吹いた風に、制服の裾が揺れる。
「……本当、だったんだ」
隣に立っていた琥太郎は、うまく言葉を見つけられず、視線を逸らした。
「工事が始まってるらしくて。安全基準の問題とか、立ち入り禁止区域のこととか……」
投げるような口調になってしまい、自分でも後悔する。
愛桜は何も言わず、貼り紙の端を指先でなぞった。
その目に、ほんの少しだけ光が揺れていた。
放課後、教室に集まった六人。真季が口火を切った。
「ねえ、これほんとに中止なの? 町内の花火大会って、毎年やってたんでしょ?」
静がうなずき、タブレットを操作しながら答える。
「うん。工事区域に観客が流れ込むと危険だって。安全管理が徹底できないなら、ってことで町が判断したらしい」
「じゃあ、桜祭りも……?」
雅の声が、ほんの少しだけ震えていた。
「可能性はある。道路の計画が変わらなければ、来年以降の祭りも縮小されるかもしれない」
教室の空気が一気に重たくなった。
愛桜は少しの間黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「だったら、せめて桜だけは守ろうよ。……花火がなくても、この町の象徴は、残せるかもしれない」
その言葉は明るい調子だったけれど、琥太郎の目には、彼女の拳がほんの少し震えているのが見えた。
(……ごめん、俺にはそんな風に言えない)
その夜、琥太郎は部屋の天井をぼんやりと見つめていた。
(なにやってんだ、俺……)
布団の中、スマホを開くと、愛桜から短いメッセージが届いていた。
〈花火はなくても、桜は残せるよね〉
わずか十数文字。それだけの文章なのに、琥太郎の胸の奥には、なぜかずしんと重たく響いた。
返事を打とうとして、打てなかった。
翌日。琥太郎は、校門前で署名を呼びかける愛桜の姿を見つけた。
昨日と変わらぬ微笑みを浮かべている。けれど、どこか影があった。
その手に握られた新しい署名用紙は、すでに何枚かの名前で埋まっていた。
その様子を見て、真季が首をかしげながら近づいてきた。
「え、まだ集めるの?」
「うん。花火はなくなっちゃったけど、桜はまだ守れるから」
笑顔のまま答える愛桜。その声には芯があったが、かすかにかすれていた。
琥太郎はその後ろ姿を、少し離れた場所から見ていた。
(……また俺は、遠くから見てるだけかよ)
情けない気持ちが、胸の奥で渦巻く。
放課後、静が書類を抱えて教室に戻ってきた。
「町議会、追加資料が必要みたい。次の審議までに新しい提出資料を整えなきゃ」
「やるしかないな」
大希は短く答え、何も言わずに資料の束を受け取っていく。
琥太郎はただ、それを見ていた。
(俺には、あんな風に黙ってやる力なんか、ない)
その夜、琥太郎は机に向かっていた。白紙のノートを開き、ペンを持つ。けれど何も書けない。
愛桜の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。真剣な表情。ときどき見せる、心細そうな笑顔。
(……なんで、俺はいつもこうなんだ)
そのとき、スマホの通知音が鳴った。
雅が投稿した町内掲示板の映像だった。画面には、昇降口で署名を集める愛桜と真季の姿。そして、後ろで微笑む静と、資料を抱えた大希。
コメント欄には、いくつもの応援の言葉が並んでいた。
〈応援してます〉
〈あの桜、うちの子も好きだった〉
〈がんばれ〉
そのひとつひとつが、琥太郎の胸を突く。
翌朝。校門前には、また人だかりができていた。
真季は元気に声を張り、静はタブレットでスケジュールを確認している。
愛桜は、汗をぬぐいながら、それでも一人ひとりに丁寧に頭を下げていた。
「ありがとうございます。本当に……」
琥太郎は一度立ち止まり、深く息を吐いた。
そして、少しずつ足を進め、愛桜の横に並んだ。
「……僕も、やるよ」
愛桜が目を見開いた。その直後、ふわりと柔らかい笑みが咲く。
「ありがとう」
その笑顔に、胸の奥の重たいものが、少しだけほどけていく。
昼休み。二人並んで、声をかけ続けた。
最初は振り向かれなかったが、しだいに名前を書いてくれる生徒が増えていく。
それはまるで、花火の代わりにひとつずつ灯る、小さな灯のようだった。
放課後、愛桜は署名の束を胸に抱きしめて言った。
「花火はなくても……ありがとう。今、すごく幸せ」
その言葉に、琥太郎はただ頷いた。
(来年は、絶対に……)
坂道を歩きながら、遠くに霞んだ空を見上げた。もしあの夜に花火が打ち上がっていたなら――。
でも、来年こそ。その灯りを、この桜の下で一緒に見よう。
その夜、愛桜からメッセージが届いた。
〈桜も、きっと喜んでる〉
琥太郎は、少し震える指で返した。
〈来年は、花火を一緒に見よう〉
〈今年度の桜町夏祭りにおける花火大会は中止といたします〉
〈理由:道路拡張工事に伴う安全上の懸念〉
その文字を、愛桜はしばらくじっと見つめていた。
背後から吹いた風に、制服の裾が揺れる。
「……本当、だったんだ」
隣に立っていた琥太郎は、うまく言葉を見つけられず、視線を逸らした。
「工事が始まってるらしくて。安全基準の問題とか、立ち入り禁止区域のこととか……」
投げるような口調になってしまい、自分でも後悔する。
愛桜は何も言わず、貼り紙の端を指先でなぞった。
その目に、ほんの少しだけ光が揺れていた。
放課後、教室に集まった六人。真季が口火を切った。
「ねえ、これほんとに中止なの? 町内の花火大会って、毎年やってたんでしょ?」
静がうなずき、タブレットを操作しながら答える。
「うん。工事区域に観客が流れ込むと危険だって。安全管理が徹底できないなら、ってことで町が判断したらしい」
「じゃあ、桜祭りも……?」
雅の声が、ほんの少しだけ震えていた。
「可能性はある。道路の計画が変わらなければ、来年以降の祭りも縮小されるかもしれない」
教室の空気が一気に重たくなった。
愛桜は少しの間黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「だったら、せめて桜だけは守ろうよ。……花火がなくても、この町の象徴は、残せるかもしれない」
その言葉は明るい調子だったけれど、琥太郎の目には、彼女の拳がほんの少し震えているのが見えた。
(……ごめん、俺にはそんな風に言えない)
その夜、琥太郎は部屋の天井をぼんやりと見つめていた。
(なにやってんだ、俺……)
布団の中、スマホを開くと、愛桜から短いメッセージが届いていた。
〈花火はなくても、桜は残せるよね〉
わずか十数文字。それだけの文章なのに、琥太郎の胸の奥には、なぜかずしんと重たく響いた。
返事を打とうとして、打てなかった。
翌日。琥太郎は、校門前で署名を呼びかける愛桜の姿を見つけた。
昨日と変わらぬ微笑みを浮かべている。けれど、どこか影があった。
その手に握られた新しい署名用紙は、すでに何枚かの名前で埋まっていた。
その様子を見て、真季が首をかしげながら近づいてきた。
「え、まだ集めるの?」
「うん。花火はなくなっちゃったけど、桜はまだ守れるから」
笑顔のまま答える愛桜。その声には芯があったが、かすかにかすれていた。
琥太郎はその後ろ姿を、少し離れた場所から見ていた。
(……また俺は、遠くから見てるだけかよ)
情けない気持ちが、胸の奥で渦巻く。
放課後、静が書類を抱えて教室に戻ってきた。
「町議会、追加資料が必要みたい。次の審議までに新しい提出資料を整えなきゃ」
「やるしかないな」
大希は短く答え、何も言わずに資料の束を受け取っていく。
琥太郎はただ、それを見ていた。
(俺には、あんな風に黙ってやる力なんか、ない)
その夜、琥太郎は机に向かっていた。白紙のノートを開き、ペンを持つ。けれど何も書けない。
愛桜の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。真剣な表情。ときどき見せる、心細そうな笑顔。
(……なんで、俺はいつもこうなんだ)
そのとき、スマホの通知音が鳴った。
雅が投稿した町内掲示板の映像だった。画面には、昇降口で署名を集める愛桜と真季の姿。そして、後ろで微笑む静と、資料を抱えた大希。
コメント欄には、いくつもの応援の言葉が並んでいた。
〈応援してます〉
〈あの桜、うちの子も好きだった〉
〈がんばれ〉
そのひとつひとつが、琥太郎の胸を突く。
翌朝。校門前には、また人だかりができていた。
真季は元気に声を張り、静はタブレットでスケジュールを確認している。
愛桜は、汗をぬぐいながら、それでも一人ひとりに丁寧に頭を下げていた。
「ありがとうございます。本当に……」
琥太郎は一度立ち止まり、深く息を吐いた。
そして、少しずつ足を進め、愛桜の横に並んだ。
「……僕も、やるよ」
愛桜が目を見開いた。その直後、ふわりと柔らかい笑みが咲く。
「ありがとう」
その笑顔に、胸の奥の重たいものが、少しだけほどけていく。
昼休み。二人並んで、声をかけ続けた。
最初は振り向かれなかったが、しだいに名前を書いてくれる生徒が増えていく。
それはまるで、花火の代わりにひとつずつ灯る、小さな灯のようだった。
放課後、愛桜は署名の束を胸に抱きしめて言った。
「花火はなくても……ありがとう。今、すごく幸せ」
その言葉に、琥太郎はただ頷いた。
(来年は、絶対に……)
坂道を歩きながら、遠くに霞んだ空を見上げた。もしあの夜に花火が打ち上がっていたなら――。
でも、来年こそ。その灯りを、この桜の下で一緒に見よう。
その夜、愛桜からメッセージが届いた。
〈桜も、きっと喜んでる〉
琥太郎は、少し震える指で返した。
〈来年は、花火を一緒に見よう〉



