花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 翌朝。まだ朝の空気に冷たさが残る時間、愛桜はひとり、誰よりも早く校門をくぐった。
 蒸し暑い朝の陽射しが彼女の髪を淡く照らし、制服の袖口から覗く手首は驚くほど細い。
 両腕には、昨日の夜まで静と大希が仕上げた資料の束を抱えている。その重みにバランスを崩しながらも、彼女は決して手を離さなかった。

 歩みは少しずつ乱れていた。足取りは重く、時折、肩がふるふると揺れる。
 「……だいじょうぶ、だから」
 誰に言うでもないその言葉を、かすれた声で口にする。
 廊下の途中で手すりに片手を添え、ふうっと長く深呼吸。
 それからもう一度気を引き締めるように小さく頷いて、教室の扉を開けた。

 中にはすでに大希がいた。
 彼は無言のまま立ち上がると、何も言わずに愛桜のもとへ歩み寄り、抱えていた資料を静かに受け取った。
 重たいファイルが机の上に置かれると、鈍い音が響いた。
 その音に、琥太郎の心がまたひとつ、ざわりと揺れる。

 「ありがとう、大希君」
 愛桜の声は掠れていて、体調の悪さを隠せていなかった。
 それでも彼女は、少しだけ微笑んで見せた。
 琥太郎は、その様子を横目で見ながら、視線をすぐに逸らした。

 昨日も、今日も、そしてきっと明日も――。
 自分は、ただそこにいるだけで、何もしていない。
 みんなが前を向いて、何かを成そうとしているその輪の外に、自分だけが置いていかれているような、そんな感覚。
 焦りも、後悔も、言葉にできないほど渦を巻いていた。

 やがて、登校してきた静が、机の上のファイルを手に取り、慎重にページをめくっていく。
 「……これで、提出できるわ」
 その言葉に、教室にいた全員がわずかに息を吐いた。
 「ただし、あくまで最低限。質疑応答が来る可能性もあるから、想定問答は用意しておいて」
 静は淡々と、だが確かに責任を持って言葉を投げる。

 「それ、私が考えるよ」
 その声に皆が少し驚いた。
 愛桜が、自分から立候補したのだ。
 静でさえ、一瞬だけ目を丸くしたほどだった。

 「……分かった。じゃあ、問答項目は私が洗い出しておく」
 静の言葉に、愛桜は静かに頷いた。
 その目は、病と戦っている人間のそれではなく、ただ一人の仲間としてこの場に立っている、強い光を宿していた。

 そして放課後。
 重たくなった空気の中、大希は庁舎へと資料を届けに向かった。
 資料の入ったファイルは、片手で持つにはあまりに厚く重い。だが、大希の足取りはぶれることなく、真っ直ぐに進んでいた。
 その背中は、寡黙で無愛想な彼の人間性以上に、強さと信頼を背負っていた。

 静は一人、教室に残り、進行表を確認する。
 「受理されれば、来週末には審議にかけられるはず。あとは、役場の判断次第」
 指で表をなぞりながら、淡々とスケジュールを読み上げる。
 けれどその声音には、かすかな緊張と期待、そして祈るような願いが混じっていた。

 その時だった。
 今までずっと沈黙を守っていた琥太郎が、ぽつりと声を漏らした。
 「……俺、さ」
 不意に放たれたその言葉に、教室の空気がぴんと張り詰める。
 全員の視線が、彼に注がれた。

 その視線の重みに、喉が詰まる。心臓の鼓動が妙に早く感じる。
 それでも、今だけは――逃げたくなかった。
 この瞬間だけは、目を背けたくなかった。

 「俺、何にもしてない。逃げてばっかりだった。……それでも、ここにいていいのかなって、思ってた」
 教室の中が、静まり返った。
 扇風機の風の音すら、遠く感じるほどの沈黙。

 琥太郎の目の前で、愛桜がそっと立ち上がった。
 彼のもとへゆっくりと歩き、一歩ずつ距離を詰める。
 そして、ふるふると首を横に振った。

 「いいんだよ。だって、今こうして話してくれてる。それだけで、嬉しいよ」
 その言葉が、琥太郎の心の深い場所に、すっと染み込んでいく。

 今まで逃げていた自分を、誰も責めなかった。
 愛桜は、むしろそんな自分の言葉を受け止めてくれた。
 ――そうだ。自分は、ここにいてもいい。
 たとえ何もしてこなかったとしても、これから何かを始めることは、遅くなんかないんだ。