花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 七月の朝。
 じっとりと肌にまとわりつくような湿気と、蝉の絶え間ない鳴き声が教室の窓から入り込み、静けさをことごとくかき消していた。蝉の声はまるで、「早く動け」とせき立てるように、どこか焦りを孕んでいた。

 その喧騒の中、不意に響いたのは、静の冷ややかな声だった。
 「……これ、どうするつもり?」
 彼女が立っているのは教室の一番奥。壁際の机に広げられているのは、町議会に提出予定だった署名の束と関連資料。だがその束には、ページ抜けや資料の重複、さらには不足まで目立ち、形になっているとはとても言い難い。

 静の指先が一枚の紙を持ち上げる。その表情には怒りよりも、呆れと焦りが混じっていた。
 「ページ抜けがあるし、資料も足りてない。これじゃ通らないわよ」
 その言葉に、愛桜がすまなそうにうつむいた。彼女の肩が小さく揺れる。
 「……ごめんなさい。昨日、途中で体調を崩しちゃって……」
 言葉の端が震えていた。まるでその場に立っていることすら、精一杯のように。

 そんな彼女の隣で、琥太郎は反射的に小さく肩をすくめた。
 愛桜を責める気にはなれなかった。病気のことも、無理をしてまで頑張っていることも、彼は知っている。
 ――でも、それでも。
 自分も結局、何もしてこなかった。
 彼女のせいにするつもりはない。けれど、彼女のがんばりに甘えて、自分はただ流されていた。それが事実だった。

 「とにかく、判例とか、保存例とか……ちゃんと根拠が要るのよ。感情論だけじゃ議会は動かないから」
 静が淡々と告げる。彼女の声には棘があったが、それは責めるというよりも、焦りから来るもののように聞こえた。
 目の前の課題に向き合わなければならない――その切迫感が、言葉に滲んでいた。

 静はタブレットを取り出し、素早く操作を始める。画面に資料一覧が表示されると、その指が迷いなく次々に項目をチェックしていく。
 「データベースの整理と進行表は私がやる。コピーと収集は……大希、できる?」
 静の視線が、教室の一番後ろの席へと向かう。

 そこに座っていた大希は、相変わらず窓の外をぼんやりと眺めていた。
 蝉の鳴き声の向こうに、遠く霞んだ青い空と、校舎の屋根の先に広がる緑が揺れている。
 彼は少しだけ顔を上げ、無言で頷いた。その動作は実に静かで、だが確かに、覚悟のようなものが宿っていた。

 たった一つの頷き。
 それだけで、場の空気が変わった。
 まるで、それを合図に重いギアが動き始めたように。誰もが、それぞれの役割に意識を向ける。

 その午後、大希の姿は町の図書館にあった。
 外の陽射しが焼けるように強い日だったが、図書館の中はひんやりとして静まり返っていた。冷房の風が、静かにページをめくる音とコピー機の作動音に混じる。
 彼はその静寂の中で、一人、何度も資料棚とコピー機の間を往復していた。

 黙々と、無言のまま、必要な情報をかき集める。
 法律改正の記録、文化財保護に関する過去の判例、保存条例の実例――それらを一枚ずつ読み込み、キーワードに蛍光ペンで線を引いていく。
 その作業は単調で根気が要る。だが、大希は文句ひとつ言わずに続けていた。誰に言われるでもなく。

 ファイルは少しずつ厚みを増し、色とりどりの付箋が無数に貼られていく。
 やがて、それを見かけた大学生らしき男性が、コピー機の前でふと漏らした。
 「……本気、なんだな」
 驚きと、少しの感嘆が混じったその声に、大希は顔を上げなかった。
 返事もしない。ただ、次の資料をめくる手を止めることなく、黙ってまた作業へ戻る。

 夜、静の部屋の明かりは遅くまで灯っていた。
 彼女の机の上には、びっしりと埋まったスケジュール表と進行表。ペンを握る手は、寸分の狂いもなく線を引いていく。
 「あと四日。印刷にかかる時間を除けば、実働は……」
 ぼそりとつぶやくその声は、自分自身に向けたタイマーのように正確だった。

 秒単位で工程を組み、誰が何を、どのタイミングでやるべきかを計算していく。
 無駄を極限まで削り、最大効率で動くための準備。
 その姿は、まるで一人の軍師のようだった。