花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 六月のある昼休み。じめじめとした空気が校舎裏にこもっている中、真季はおにぎりをかじりながらひょいと下を見た。
 「ん?」
  濡れた地面に、くしゃくしゃになったビラが落ちていた。
  「守ろう、一本桜」
  大きくそう書かれた文字と、にじんだ署名欄。
 「……冗談じゃないよね?」
  真季は首をかしげてビラを拾い上げた。
  その目が、ふっと鋭くなる。
  「え、本気のやつだ。ほんとに署名集めてる……」
  おにぎりを包んでいたラップごとポケットに突っ込み、ビラを握りしめたまま走り出す。
  「拡声器……拡声器って、どこにあったっけ?」
  向かった先は放送室。
  扉をノックして中を覗くと、担当の教師が座っている。
 「先生、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、お知らせしてもいいですか? すぐ終わります、ほんとすぐ!」
  勢いに押されたのか、教師は戸惑いながらも頷いた。
  真季は息を整える間もなくマイクを握る。
  『えーっと、みんなー、聞いてるー? 校舎裏で拾ったんだけどさ、一本桜を守るための署名、募集中だって!』
  一瞬の沈黙のあと、放送は全校に響き渡った。
  教室がざわつき、隣のクラスからも笑い声が漏れてくる。
  『えーと、昇降口に行けば……多分、いると思う! 気になる人、行ってみてー!』
  マイクを置くと、教師が「ダメだって言ったろー!」と慌てて駆け込んでくるのを尻目に、真季はスキップするように廊下を戻っていった。
 「うまく伝わったかな……あとは任せたよ、桜カフェの人たち!」
  そのころ、昇降口では愛桜が署名用紙を広げていた。
 「また、こんなに……」
  放送の影響で、生徒たちが数人ずつ集まり始めていた。
  琥太郎は廊下の陰からその様子を見つめていた。
  あの時、逃げた自分。捨てた署名用紙。そして今、愛桜は堂々と人前に立っている。
  背中が、少し眩しく見えた。
  そこへ、雅がカメラを肩にかけてやってくる。
 「ふむ、これは撮影日和だな」
 「撮影って……何するのさ」
 「ライブ配信。町内掲示板でさ。『青春、桜とともに』ってタイトルにしよう」
  琥太郎は苦笑しそうになったが、言葉にはしなかった。
  でも、そのカメラのファインダー越しに映る、愛桜の笑顔と、一枚ずつ重なっていく署名用紙を見て、なぜか胸が苦しくなった。
 (……俺も、あの中に立てていたかもしれないのに)
  後悔は、いつも遅れてやってくる。
 その日の放課後、昇降口には昨日よりも多くの生徒が集まっていた。
  愛桜は署名用紙を丁寧に並べ、ひとりひとりに笑顔で頭を下げている。
 「ありがとうございます……本当に、嬉しいです」
  その横で真季は指を折って人数を数えながら、驚いたように言った。
 「わっ、これ、もうすぐ三桁だよ! すごくない?」
 「すごいね……!」
  愛桜は感激の面持ちでそう返したが、琥太郎はその光景を少し離れた場所から見ていた。
  自分が逃げた日、自販機裏に置き去りにしたビラのことを思い出す。
  あれを拾ったのが真季だったのだろう。彼女の行動が、今の盛り上がりにつながっている。
 (もしあのまま俺が……)
  そんな“たられば”を考えるたびに、胸がざらついた。
  カメラを構えながら、雅がぽつりとつぶやいた。
 「……ほらな、主役は僕じゃなかった。今回は、桜のほうが目立っちゃってるよ」
  言葉とは裏腹に、どこか誇らしげだった。
  その夜。琥太郎は、部屋の明かりもつけずに机にうつ伏していた。
  脳裏に浮かぶのは、昇降口で署名を集める愛桜の姿。
  そして、逃げ出した自分の背中。
  スマホが鳴った。通知は町内掲示板のものだった。
 〈桜のこと、本気で考えてる人がいるって知って、ちょっと感動した〉
 〈今日、署名してきたよ。応援してる〉
  知らない誰かの言葉。けれど、それが胸に響く。
  何もしていない自分と、変わっていく周り。
  どこか、取り残されたような気がした。
  翌朝、愛桜は変わらず昇降口に立っていた。
 「おはよう、琥太郎君。今日も、頑張ろうね」
  その笑顔に、胸の奥がまた軋んだ。
  返事は小さくしかできなかったけれど、心のどこかで何かが動き始めていた。
  昼休み、真季が再び昇降口で署名用紙を掲げていた。
 「まだまだ募集中だよー!」
  静はタブレット片手に進行状況を確認している。雅はコメント付きの映像をライブ配信中だ。
  その空気に背中を押されるように、琥太郎は一歩を踏み出した。
 「僕も……やるよ」
  振り返った愛桜の目が少し見開かれ、すぐに笑顔が咲いた。
 「ありがとう」
  その一言だけで、胸の中の重たい石が少しだけ外れたような気がした。
  放課後。集まった署名は段ボールいっぱいに膨れあがっていた。
 「本当に、ありがとうございます……」
  愛桜は、涙をこらえるように目を伏せ、深く頭を下げた。
  真季は照れくさそうに笑って言った。
 「ね、やっぱ冗談じゃなかったんだね」
  「うん。ほんとだよ」
  愛桜が力強く返したとき、真季の表情が少しだけ真剣に変わった。
 「じゃあさ。最後まで、ちゃんとやり切ろうよ」
  琥太郎は無言で頷いた。
  逃げたくなる自分は、まだどこかにいる。
  でも今は――逃げずにいようと思えた。
  夕焼けの差し込む校門前。
  愛桜がふと立ち止まり、琥太郎に向かって言った。
 「ありがとう、琥太郎君。あなたがいてくれて、嬉しかった」
  胸が熱くなった。言葉に詰まりながらも、かすれた声で返す。
 「……うん」
  海風に桜の花びらが舞い、茜色の空に溶けていった。