臨時議会から、数日が過ぎた。
季節は三月。風の冷たさの中にも、春の匂いが混じりはじめた頃だった。
校庭の隅に積もっていた雪も、すっかり解けて泥に変わり、グラウンドにはところどころに水たまりができていた。
朝のホームルーム前。教室の窓をうっすらと霞ませた結露が、陽に照らされて虹色にきらめいている。
その頃、町のあちこちでは、ひとつの噂が静かに広がっていた。
――「桜の保存とバイパス計画、共存の可能性を検討へ」
それは、ごく小さく、地域新聞の隅に掲載された記事だった。
派手な見出しも、大きな特集もない。
だが、それでもその言葉には、これまでになかった「希望」が滲んでいた。
町にとっての“既定路線”だった伐採案。
すべてが決まりきった結末のように語られてきたそれが、ついに“揺らいだ”のだ。
「やった……!」
その記事を握りしめて、真季が廊下で思わず叫んだ。
声は反響し、ガラス窓がかすかに震えた。
彼女の目はうるんでいた。頬は赤く、表情は弾けそうなほどに明るかった。
「これ、コピーして町内掲示板に貼りに行くから!」
雅がすでに記事をスマホで撮影し、すぐにプリントアウトの準備をしていた。
「今日中に五カ所は回れるかな……うん、もっと大きな文字で加工しよう!」
彼の目には、いつもの“主役になりたい”という欲よりも、誰かに何かを伝えたいという純粋な熱が宿っていた。
静はといえば、議会録画の書き起こしをもう始めていた。
タイムコードを秒単位で区切り、話者ごとの発言を一つ一つ丁寧に文字起こししていく。
その背中には、プロジェクトマネージャーのような静かな責任感が漂っていた。
そして、大希。
彼は今日もひと言も発さず、役場への追加資料の準備を進めていた。
コピー機から出てくる資料を黙って綴じ、封筒に収めるその手つきに、雑な動きは一つもなかった。
みんなが、それぞれのやり方で動いている。
桜のために。春のために。
そんな中――
琥太郎は、ひとり病院を訪れていた。
病院の廊下は、静かだった。
年末に訪れたときと同じ白い照明、消毒液の香り、点滴の電子音。
けれど、今日はどこか違う。
彼の歩幅は、心なしかしっかりしていた。
踵が床を打つたびに、揺るぎのない音がした。
「……ほんとに、ありがとう」
病室のベッドの上。
愛桜は、枕にもたれかかるようにして微笑んでいた。
頬は以前より少しだけ痩せていたけれど、目の奥には確かな光が宿っていた。
「私こそ……。あんなふうに、琥太郎君が話してくれるなんて、思ってなかった」
「正直、足が震えてた。原稿、途中でぐちゃぐちゃになったし」
思い出して苦笑いする。
愛桜も、口元を押さえて小さく笑った。
その議会でのスピーチは、琥太郎にとって人生で初めて“逃げずに立った場所”だった。
声は震え、言葉はかすれ、持っていた原稿は途中で濡れて読めなくなった。
それでも、彼は最後まで立ち続け、伝えたのだ。
臆病だった自分のこと、そして桜への思い。
あの場で拍手が起こったとき、琥太郎の中で何かが確かに変わった。
季節は三月。風の冷たさの中にも、春の匂いが混じりはじめた頃だった。
校庭の隅に積もっていた雪も、すっかり解けて泥に変わり、グラウンドにはところどころに水たまりができていた。
朝のホームルーム前。教室の窓をうっすらと霞ませた結露が、陽に照らされて虹色にきらめいている。
その頃、町のあちこちでは、ひとつの噂が静かに広がっていた。
――「桜の保存とバイパス計画、共存の可能性を検討へ」
それは、ごく小さく、地域新聞の隅に掲載された記事だった。
派手な見出しも、大きな特集もない。
だが、それでもその言葉には、これまでになかった「希望」が滲んでいた。
町にとっての“既定路線”だった伐採案。
すべてが決まりきった結末のように語られてきたそれが、ついに“揺らいだ”のだ。
「やった……!」
その記事を握りしめて、真季が廊下で思わず叫んだ。
声は反響し、ガラス窓がかすかに震えた。
彼女の目はうるんでいた。頬は赤く、表情は弾けそうなほどに明るかった。
「これ、コピーして町内掲示板に貼りに行くから!」
雅がすでに記事をスマホで撮影し、すぐにプリントアウトの準備をしていた。
「今日中に五カ所は回れるかな……うん、もっと大きな文字で加工しよう!」
彼の目には、いつもの“主役になりたい”という欲よりも、誰かに何かを伝えたいという純粋な熱が宿っていた。
静はといえば、議会録画の書き起こしをもう始めていた。
タイムコードを秒単位で区切り、話者ごとの発言を一つ一つ丁寧に文字起こししていく。
その背中には、プロジェクトマネージャーのような静かな責任感が漂っていた。
そして、大希。
彼は今日もひと言も発さず、役場への追加資料の準備を進めていた。
コピー機から出てくる資料を黙って綴じ、封筒に収めるその手つきに、雑な動きは一つもなかった。
みんなが、それぞれのやり方で動いている。
桜のために。春のために。
そんな中――
琥太郎は、ひとり病院を訪れていた。
病院の廊下は、静かだった。
年末に訪れたときと同じ白い照明、消毒液の香り、点滴の電子音。
けれど、今日はどこか違う。
彼の歩幅は、心なしかしっかりしていた。
踵が床を打つたびに、揺るぎのない音がした。
「……ほんとに、ありがとう」
病室のベッドの上。
愛桜は、枕にもたれかかるようにして微笑んでいた。
頬は以前より少しだけ痩せていたけれど、目の奥には確かな光が宿っていた。
「私こそ……。あんなふうに、琥太郎君が話してくれるなんて、思ってなかった」
「正直、足が震えてた。原稿、途中でぐちゃぐちゃになったし」
思い出して苦笑いする。
愛桜も、口元を押さえて小さく笑った。
その議会でのスピーチは、琥太郎にとって人生で初めて“逃げずに立った場所”だった。
声は震え、言葉はかすれ、持っていた原稿は途中で濡れて読めなくなった。
それでも、彼は最後まで立ち続け、伝えたのだ。
臆病だった自分のこと、そして桜への思い。
あの場で拍手が起こったとき、琥太郎の中で何かが確かに変わった。


