二月中旬、季節外れの暴風警報が町を襲った。
天気予報では「台風並みの低気圧」と言われていたが、想像以上だった。朝から空は黒く、午後には木々が激しく揺れ、電柱がきしむほどの風が吹いた。
教室の窓もガタガタと震え、生徒たちは落ち着かない様子で外を眺めていた。
放課後の活動はすべて中止。グラウンド立入禁止、校舎裏への通路も封鎖。
そして――校庭の一本桜も、立入禁止区域となった。
「倒木の危険ありって……まさか、あの桜が……」
真季が青ざめた顔で呟いた。
「まじかよ……あの幹、前から少し傾いてたし……」
雅が口元を押さえ、窓の外の桜を見つめる。激しい風にあおられ、枝がばたばたと揺れていた。
「行っちゃダメだよ、近づいたら危ないって……先生が……」
静が冷静に制止するが、その表情には焦りが滲んでいる。
そのとき、校舎のスピーカーが鳴った。
『安全のため、全校生徒は速やかに下校してください』
誰もが鞄をまとめて席を立つ中、琥太郎の心はざわついていた。
(もし……もし、今夜の風で、あの桜が……)
愛桜の言葉が頭をよぎる。
――来年も、あの桜の下でみんなと笑いたい。
その「来年」が、今日で終わるかもしれない。
教室を出ると、階段の踊り場で雅がマイクを持っていた。放送室に忍び込んだのだろう。
「お願い! 誰か、一緒に桜を守ってくれ! 倒れる前に、少しでも、できることがあるかもしれない!」
けれど、誰も足を止めなかった。
「無理だよ、危ないし」
「先生たちに怒られるよ」
「どうせ、無理でしょ」
廊下を流れる冷たい空気に、雅の声がむなしく消えていく。
「……ふざけんなよ」
ぽつりと、琥太郎が呟いた。
「ふざけんな……そんなの、聞きたくない……!」
その足で、彼は昇降口を飛び出した。
風が顔に痛いほど当たり、息がしにくいほどだった。
「……!」
走りながら、ポケットの中のスマホを取り出す。
〈愛桜、今どこ?〉
すぐに返信が来る。
〈家の前。……桜、行きたい〉
その短い言葉に、琥太郎は迷いなく向きを変えた。
愛桜の家の前には、車椅子に座った彼女が、防風ジャケットに身を包んで待っていた。
顔色は悪い。体調が万全でないことは明らかだった。
それでも彼女の瞳は、まっすぐ前を見ていた。
「行こう、琥太郎君。……あの木が、私たちを待ってる」
琥太郎は愛桜の車椅子のハンドルをしっかりと握り、風に抗うように前に出た。
突風が吹くたび、車椅子のタイヤが左右に振られた。
頬に当たる風は冷たく、耳鳴りのように音が渦巻く。
「だいじょうぶ……?」
愛桜が小さく尋ねる。
「だいじょうぶじゃない。でも行く」
叫ぶように言い返した。
愛桜は笑い、琥太郎は前かがみで押し続けた。
一本桜が見えたのは、町道のカーブを曲がった瞬間だった。
風に煽られて、枝が左右に大きくしなっている。
地面にうねるような亀裂が走り、根元には赤い立ち入り禁止テープが巻かれていた。
「間に合った……!」
愛桜の声が、風に消えそうになる。
琥太郎は車椅子を止め、風よけになるように愛桜の前に立った。
「近づいたら危ないって、わかってる。でも……ここで見たいんだよな?」
愛桜はうなずいた。
「この木、まだ咲いてないのに、こんなに、みんなに愛されてる。すごいね……」
「咲くまで、守りたい。まだ生きてるんだよ」
その言葉は、まるで木の声を代弁するようだった。
そのとき――。
「おーい!」
振り返ると、風を切って走ってくる姿があった。
「ロープ持ってきた!」
大希だった。背中には支柱がくくりつけられている。
「道具は車にある!運ぶぞ!」
さらに真季と静、雅が駆けつける。真季の髪は風で爆発していたが、満面の笑みだった。
「俺、あれ巻く!ほら、タオルとゴム持ってきたから!」
「枝、補強する!このロープ、引っかけるわ!」
「私、動画撮ってる!非常記録用!後で証拠になるよ!」
「おいおい……来てくれたのかよ、みんな……!」
琥太郎の目に涙がにじむ。
風速二十五メートルの中、六人の姿が桜の根元に集まった。
息を合わせ、言葉を交わし、声を張って支え合う。
琥太郎は幹にタオルを巻き、静の指示でゴムと布で縛る。
大希と雅は、支柱を立てて幹の傾きに支えを作る。
真季が映像を記録しながら叫ぶ。
「絶対、倒させないからねー!」
愛桜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう……ありがとう、みんな……」
風はまだ止まない。
でも、彼らの中には、確かに一本の桜が立っていた。
根が切れても、枝が折れても――。
この想いだけは、きっと風には負けない。
天気予報では「台風並みの低気圧」と言われていたが、想像以上だった。朝から空は黒く、午後には木々が激しく揺れ、電柱がきしむほどの風が吹いた。
教室の窓もガタガタと震え、生徒たちは落ち着かない様子で外を眺めていた。
放課後の活動はすべて中止。グラウンド立入禁止、校舎裏への通路も封鎖。
そして――校庭の一本桜も、立入禁止区域となった。
「倒木の危険ありって……まさか、あの桜が……」
真季が青ざめた顔で呟いた。
「まじかよ……あの幹、前から少し傾いてたし……」
雅が口元を押さえ、窓の外の桜を見つめる。激しい風にあおられ、枝がばたばたと揺れていた。
「行っちゃダメだよ、近づいたら危ないって……先生が……」
静が冷静に制止するが、その表情には焦りが滲んでいる。
そのとき、校舎のスピーカーが鳴った。
『安全のため、全校生徒は速やかに下校してください』
誰もが鞄をまとめて席を立つ中、琥太郎の心はざわついていた。
(もし……もし、今夜の風で、あの桜が……)
愛桜の言葉が頭をよぎる。
――来年も、あの桜の下でみんなと笑いたい。
その「来年」が、今日で終わるかもしれない。
教室を出ると、階段の踊り場で雅がマイクを持っていた。放送室に忍び込んだのだろう。
「お願い! 誰か、一緒に桜を守ってくれ! 倒れる前に、少しでも、できることがあるかもしれない!」
けれど、誰も足を止めなかった。
「無理だよ、危ないし」
「先生たちに怒られるよ」
「どうせ、無理でしょ」
廊下を流れる冷たい空気に、雅の声がむなしく消えていく。
「……ふざけんなよ」
ぽつりと、琥太郎が呟いた。
「ふざけんな……そんなの、聞きたくない……!」
その足で、彼は昇降口を飛び出した。
風が顔に痛いほど当たり、息がしにくいほどだった。
「……!」
走りながら、ポケットの中のスマホを取り出す。
〈愛桜、今どこ?〉
すぐに返信が来る。
〈家の前。……桜、行きたい〉
その短い言葉に、琥太郎は迷いなく向きを変えた。
愛桜の家の前には、車椅子に座った彼女が、防風ジャケットに身を包んで待っていた。
顔色は悪い。体調が万全でないことは明らかだった。
それでも彼女の瞳は、まっすぐ前を見ていた。
「行こう、琥太郎君。……あの木が、私たちを待ってる」
琥太郎は愛桜の車椅子のハンドルをしっかりと握り、風に抗うように前に出た。
突風が吹くたび、車椅子のタイヤが左右に振られた。
頬に当たる風は冷たく、耳鳴りのように音が渦巻く。
「だいじょうぶ……?」
愛桜が小さく尋ねる。
「だいじょうぶじゃない。でも行く」
叫ぶように言い返した。
愛桜は笑い、琥太郎は前かがみで押し続けた。
一本桜が見えたのは、町道のカーブを曲がった瞬間だった。
風に煽られて、枝が左右に大きくしなっている。
地面にうねるような亀裂が走り、根元には赤い立ち入り禁止テープが巻かれていた。
「間に合った……!」
愛桜の声が、風に消えそうになる。
琥太郎は車椅子を止め、風よけになるように愛桜の前に立った。
「近づいたら危ないって、わかってる。でも……ここで見たいんだよな?」
愛桜はうなずいた。
「この木、まだ咲いてないのに、こんなに、みんなに愛されてる。すごいね……」
「咲くまで、守りたい。まだ生きてるんだよ」
その言葉は、まるで木の声を代弁するようだった。
そのとき――。
「おーい!」
振り返ると、風を切って走ってくる姿があった。
「ロープ持ってきた!」
大希だった。背中には支柱がくくりつけられている。
「道具は車にある!運ぶぞ!」
さらに真季と静、雅が駆けつける。真季の髪は風で爆発していたが、満面の笑みだった。
「俺、あれ巻く!ほら、タオルとゴム持ってきたから!」
「枝、補強する!このロープ、引っかけるわ!」
「私、動画撮ってる!非常記録用!後で証拠になるよ!」
「おいおい……来てくれたのかよ、みんな……!」
琥太郎の目に涙がにじむ。
風速二十五メートルの中、六人の姿が桜の根元に集まった。
息を合わせ、言葉を交わし、声を張って支え合う。
琥太郎は幹にタオルを巻き、静の指示でゴムと布で縛る。
大希と雅は、支柱を立てて幹の傾きに支えを作る。
真季が映像を記録しながら叫ぶ。
「絶対、倒させないからねー!」
愛桜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう……ありがとう、みんな……」
風はまだ止まない。
でも、彼らの中には、確かに一本の桜が立っていた。
根が切れても、枝が折れても――。
この想いだけは、きっと風には負けない。



