花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 琥太郎はファイルを胸に抱いた。
 指先は冷えて感覚が鈍くなっていたけれど、その分だけ、心の芯にある熱ははっきりと感じていた。

 校門をくぐると、雪がちらちらと舞っていた。
 空はどんよりと曇っていて、色のない灰が降ってくるような印象さえあった。
 けれど、琥太郎の視界は明るかった。

 歩きながら見上げた空には、春の兆しなんてひとつもなかった。
 それでも彼の胸には、確かに春が芽吹こうとしていた。
 愛桜が「見たい」と願った桜。その木を残すこと。
 そして――あの桜の下で、またみんなと笑うこと。

 雪を踏みしめながら、役場へ続く道を歩く。
 道はなだらかだけれど、なぜかやけに遠く感じた。
 一歩ごとに、膝の奥が少しずつ強張っていく。

 (逃げるな。もう逃げるな)

 ガラス張りの役場の入口に、自分の姿が映った。
 そこには、背筋を伸ばした琥太郎が立っていた。
 濡れていた頃の自分とも、目を逸らしてばかりいた頃の自分とも違う――まっすぐな顔だった。

 意を決して、ドアを開ける。
 暖房のぬくもりが頬を撫でる。
 受付の女性が顔を上げ、丁寧な声で尋ねた。

 「ご用件は?」

 「……桜町の保存に関する署名と提案書類の提出に……来ました」

 少しだけ震えた声だった。
 でも、それでも言い切れた。言葉にできた。

 受付の女性は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに表情を整えて頷いた。
 「環境政策課ですね。三階にお進みください」

 エレベーターの中。
 手に持つファイルを見つめる。
 指先に力を込めると、紙の角がかすかに指に食い込んだ。

 (“俺が咲かせてみせる”って、言ったんだ)

 あの病室で。
 愛桜の前で、自分の言葉でそう誓った。
 ならば、ここでやらなければ、あの言葉は全部嘘になる。

 三階に着いた。
 カウンターには無表情な職員が座っていて、丁寧に会釈をする。

 琥太郎は震える手でファイルを差し出す。
 「……提出を、お願いします」

 職員は無言でファイルを開き、書類を一枚一枚確認していく。
 時間にして数分。けれど、琥太郎には何十倍にも感じられた。

 待合席の椅子に腰掛けると、膝が自然と震えていた。
 隣には誰もいない。
 時計の針の音だけが、コツコツと響いていた。

 職員が戻ってくる。

 「はい、受領いたしました。こちらが受領印です。これで提出は完了です」

 その言葉に、琥太郎はゆっくりと息を吐いた。
 胸の奥で固まっていた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
 肩が、自然と軽くなる。

 「……ありがとうございました」

 お辞儀をしてから、琥太郎は役場を後にした。